シュタイナーノート168
死と意識魂、そして悪
2012.4.4.

「なぜ死があるのか」と問いかけてみる。

現代においてほとんどタブー視されているともいえる「死」。
その背景には、本来、「霊」「魂」「体」という三分節として
とらえられていた人間が、「心」と「身体」という2分節となるどころか、
「心」さえ「脳」が、つまりは「身体」が生み出すものとされ、
ほとんど「身体」に一元化されてしまっている世界観があるように見える。
つまり、パソコンがクラッシュしてしまったら、
そのパソコンを使っている人間も終わってしまうという世界観のようなもの。

たしかにパソコンはハードが壊れてしまったら、
壊れてしまった部分は働かないし、
ハードは問題なくても、ソフトウェアに異常があれば、
使いたい機能は使えなくなってしまう。
機能を回復させるためにソフトウェアを正常に働かせようとしたり、
ハードを修理したりすることは必要であることは確かだが、
その範囲だけで世界観を閉じてしまうと、
「死」はそのなかの想像力の範囲内でタブー視されざるをえなくなる。

「死」をめぐって、「不安」と「恐れ」が渦巻いてしまい、
「死」に伴って行われるさまざまな「儀式」などに対しては、
今度は、それまでもっていた漠然とした世界観を投げ捨ててしまうことになる。
あらゆることに柔軟な思考態度をもっていたり理性的であったりする人も、
死んだら終わり、から、死の後へのわけのわからない「信」へとジャンプする。
ジャンプするために、遺伝子だとか子孫だとかいうことを過剰に持ち出したりもする。
そうすると、なぜ仏教でもキリスト教でも正統では聖職者は子孫を持たないのかさえ理解できなくなる。

「なぜ死があるのか」。
シュタイナーの示唆の一つを見てみることにしたい。
もちろん、「死」は「目的」ではない。
人は死ぬために生きているわけではない。
「死」は「意識魂の能力を完全に発達させる」ための
「宇宙の作用力」の「副作用」だというのである。

同様に、「なぜ悪はあるのか」。
その問いに対しても、シュタイナーは、その「悪の作用力」は、
意識魂を発達させることに深く関わっているという。
その意味で、人は「自分の魂の中に悪の力を見出そうとしなければ」ならないという。

   死という現象を理解するには、死を宇宙の作用力との関連の下に考察しなけれ
  ばなりません。この作用力が、人間に働きかけて、死をもたらすのです。(・・・)
   人間に死をもたらすこの作用力が、人間を死なせるために宇宙に存在している、
  と思ったら、まったくの間違いです。そうではなく、人間に死をもたらすのは、
  単なる副作用にすぎないのです。
  (・・・)
   それでは、人間を死にいたらしめる作用力の本来の仕事とは何なのでしょうか。
  それは、人間の意識魂の能力を完全に発達させることなのです。だからこそ、死
  の秘儀は第五後アトランティス期の発展と深い関わりがあるのです。(・・・)私は
  意識魂ではなく、意識魂の能力と言いました。この能力を人類の進化の過程に組み
  入れるための働きが、その副作用として、人間に死をもたらすのです。
  (・・・)
   死の秘儀について、つまり宇宙の中に働く、人間に死をもたらす作用力について
  語ったのと同じ仕方で、「悪の作用力」についても語ることができます。悪の作用
  力もまた、人類の秩序の中に悪しき行為を生じさせるために存在しているのではあ
  りません。この場合も、副作用にすぎないのです。もしも宇宙の中に死の作用力が
  存在しなかったら、人は意識魂を発達させることができなかったでしょう。そして
  その後の進化の過程で、霊我、生命霊、霊人の力に向き合うことができなかったで
  しょう。霊我、生命霊、霊人の力を受容するには、意識魂を発達させなければなら
  ず、そのためには、第五後アトランティス期に死の作用力をーー三千年期の中葉ま
  でにーー完全に自分の魂の中にこの作用力を受け容れなければならないのです。
   悪のこの作用力の本質を洞察しようとするなら、その力の外的な結果に眼を向け
  るのではなく、自分の魂の中に悪の力を見出そうとしなければなりません。宇宙の
  中に働く悪の力が、人間の中にも働きかけている限りでの悪の力をです。人間の内
  部においてのみ、深く心を動かされずには語れないような悪の作用力が始まるので
  す。
  (・・・)
   この悪の作用力は、人間に犯罪行為を起こさせるために宇宙の中に存在している
  わけではないのです。人が意識魂を発達させるべきときに、霊的生活を受け容れよ
  うとする傾向を人間の中に呼び起こすために、宇宙の中に存在しているのです。
   宇宙の中には、この悪の作用力が働いています。人はそれを受け容れなければな
  りません。それを受け容れることで、霊的な生活を自分の意識魂で体験するための
  萌芽を、自分の中に移植するのです。
  (シュタイナー『悪について』高橋巌訳 春秋社 2012.2.15.発行/P.72-86)

ここで、「意識魂」についてあらためて見ておくことにしたい。
もちろんそれは「私」(自我)と深く関わっている。
たとえ大海の一滴でしかないとしてもみずからの内にある神的なものとしての「私(自我)」。
とても重要なところなので、『神秘学概論』の「人間の本質」の章から、
「意識魂」についてのところを引いておきたい。

   人間は、みずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間の
  もっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このよう
  に人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の三分肢を獲得する。アストラ
  ル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的な
  ものを通して、自分自身についての内的な意識を獲得する。それゆえ、神秘学は魂
  のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。そして、神秘学の意味において、魂は、感覚
  魂、悟性魂、意識魂の三分肢から成り立っている。
  (・・・)
   意識魂の中ではじめて、「私」の本当の性質が明かされる。魂は、感性と悟性に
  おいては、外なる事柄に没頭しているが、意識魂の中では、みずからの本性を手に
  入れる。「私」は、意識魂を通して、まさに内的な活動を通して、知覚される。
  (・・・)
   一滴の水のように、意識魂の中に現れるものを、神秘学は「霊」と呼ぶ。意識魂
  は、すべての現象の中の隠された霊と、結びついている。人間がすべての現象の中
  に霊を見ようとするのなら、意識魂の中に「私」を見るのと同じ仕方で、それを見
  なければならない。「私」を知覚するときのやり方で、現象世界に向き合わなけれ
  ばならない。そうすることによって、人間は、存在の高次の段階へ発展する。
  (シュタイナー『神秘学概論』高橋巌訳 ちくま文庫  P.72-75)