シュタイナーノート171
自然と芸術/高次の自然へ
2012.9.19

プラトンよりもっと古い古代ギリシアの
アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、パルメニデスといった思想家たちにとって
「自然(フュシス)」というのは、
人間や社会や神々などをすべて含んだ「万物(タ・パンタ)」であり、
その「自然(フュシス)」が派生した動詞「フュエスタイ」は、
「生える」「成る」「生成する」といった意味だったという。
古代の日本語でいえば「むすひ」ということになる。
高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)の名も
その「むすひ」に関係している。

その、古代日本に近い自然観だともいえる古代ギリシアにおいて、
その後、プラトンは「イデア」という超自然的原理のようなものを導入し、
自然観は大きな変化を見せることになる。
プラトンによれば、すべての個物は、
「形相(エイドス)」と「質量(ヒュレー)」の合成体(シュノロン)である。
「質量(ヒュレー)」としての「自然(フュシス)」が、
「形相(エイドス)」によって形を持ち、個物として存在することになる。
そのときの「自然(フュシス)」はすでに、おのずから生成するものではなくなっている。
ちなみに、「形而上学的」というのは、
ギリシア語の「超自然的(メタ・フュシス)」の訳だということである。

当時のギリシア人にとっても、またアリストテレスにとってさえ、
こうしたプラトンのイデア論は、精神と自然が深く結びついている生成的な感覚からいえば、
かなり異様な感じで受けとめられていたようだが、
その精神と自然が切り離された自然観が、西洋においては伝統的な考え方になっていく。
キリスト教の神学では、それが超自然的原理としての「神」と被造物としての自然となる。

私たちはすでに、かつての古代ギリシアのようなかたちで、
精神と自然が深く結びついている幸福な状態に戻るわけにはいかない。
しかし、精神と自然の対立状態のままにいるわけにもいかない。

ゲーテは、個体の生成と運動の中に、不変の法則を見つけだし、
そこに「原像」、「現象の背後に存する駆動力」、「高次の自然」を観ようとする。
そのためには、人間の精神が、個体の核心まで至り、
個別が「理念を顕し、個体がすでに普遍と必然の性格を顕しているような」領域を
持たなければならないとする。
そういう領域は、自然の事物には欠けている。
だからこそ、そこに神的なものを植え込まなければならない。
そうしたことを「感性界と理性界に並ぶ、第三の必然的世界」を理解するのが、
美学、芸術学であり、芸術家はそうした世界を創造しなければならないという。

以下、シュタイナーの初期(1888年)の講演、『新しい美学の父ゲーテ』から。
キーワードは「高次の自然の創造」としての「芸術」ということ。

   ギリシア時代のように精神と自然が深く結びついていた時代には、芸術学の
  生じる余地はありませんでした。しかし、精神と自然が宥和しえぬ対立状態に
  あった中世のような時代にも、芸術学は生じえませんでした。美学が成立する
  のは、人間が自然の拘束から脱して自由に、独自の立場から、精神を曇りのな
  い眼で直視する時代でなければなりませんが、同時に自然との宥和がふたたび
  可能になっていなければなりません。人間がギリシア精神を大切にするのは、
  必要なことだったのです。なぜなら、われわらが今いると感じている世界が偶
  然の寄せ集めの結果生じたのだというのでは、神的なもの、必然的なものをど
  こにも見出すことができませんから。
  (…)
   自然と精神との乖離は、ゲーテの立場に反しています。ゲーテは世界の中に
  大きな全体を見ようとします。統一した進化の系列を見ようとします。人間も
  またこの統一体の一分肢でありーー多分最高のー一分肢なのです。
  (…)
   ゲーテは現実から逃避して、現実とは無縁の、抽象的な思想世界を自分の内
  部に創造する、という方向をとりません。反対です。彼は現実の中に沈潜しま
  す。そしてその永遠の変化、その生成と運動の中に、不変の法則を見つけだそ
  うとします。彼は個体に向き合い、個体の中に原像を看取しようとします。で
  すから、彼のこころの中に現れた原植物、原動物こそがゲーテにとっての理念、
  動物、植物の理念にほかならなかったのです。(…)
   ゲーテの原像は、空虚な図式なのではなく、現象の背後に存する駆動力なの
  です。
   この駆動力こそが、ゲーテの手に入れようとした、自然の中の「高次の自然」
  なのです。このことからもわかるように、今、眼の前に拡がっている日常の現
  実は、高い文化段階に達した人間の求める現実ではないのです。人間の精神が
  この日常の現実の殻を破って、その核心にまで至るときにのみ、この世界を内
  奥で支えている高次の自然が見えてくるのです。
  (…)
   私たちは、現実と理念との間に、新しい領域を持つ必要があるのです。そこ
  ではすでに個別が、全体を待つことなく、理念を顕し、個体がすでに普遍と必
  然の性格を顕しているような、そういう領域をです。そのような世界は、現実
  の中には存在していませんから、人間がまず自分でその世界を創造しなければ
  なりません。そしてそのような世界こそが芸術の世界なのです。芸術という、
  感性界と理性界に並ぶ、第三の必然的世界なのです。
   美学は、芸術をこの第三の世界として理解する、という課題を担っています。
  自然の事物には欠けている神的なものを、自然の事物の中に植え込むことが、
  芸術家に与えられた高い使命なのです。芸術家はいわば神の領域を地上にもた
  らします。
  (シュタイナー『新しい美学の父ゲーテ』筑摩書房
   シュタイナーコレクション7所収/P.24-30)