シュタイナーノート172
芸術とはなにか/プレグナントな点
2012.9.25

芸術とは何かという問いを発することはできるにしても、
それに答えることは容易なことではないだろう。
しかし、問いを発さなければ、なにもはじまらない。

芸術的とされる営為はさまざまになされているわけだし、
なんでもいいからこれが芸術だといえば芸術になるわけでもない。
これが芸術なのか?と疑問がわきおこることはめずらしくないし、
芸術と芸術でないものの境界がはっきりしているかといえば、そうともいえない。
芸術作品であると自称するために、
その作品(のようなもの)に、名前を付けて貼っておけば、
それだけで芸術作品だと主張することもできるかもしれないが、
もしそれだけが基準になってしまえば、
芸術は、ただの社会的機能として、レッテルを貼られているだけにすぎなくなる。
そういうあり方は、やはり不毛である。

必ずしも芸術と芸術でないものの境界をはっきりさせることはできないとしても、
芸術的態度についての、また芸術作品とされるものについても、
それに対する自分なりに納得できる視点、姿勢はもっておきたいと思っている。

シュタイナーが、芸術について、ゲーテに即して示唆していることは、
そうしたことにおいても、ぼくにとっては、ひとつの光でもある。

芸術は自然そのままではない。
そこに人が加わっているからだ。
また、自然はそのままで完全であるとするならば、
芸術にその役割はなくなってしまう。

この地上にはさまざまな事物があり、事象があるが、
それらがこの地上的現実のなかで、
それらの「理念」が十全に開示、表現されていない。
つまり、その本来の「意図」が不全のままになっているがゆえに、
そうした事物、事象の「理念」意図」を
その個々のものから引き出し、そこに形を与えるのが芸術だと考えることができる。
自然よりも高次の力によって、その自然を高次の自然として形作ること。

シュタイナーが、「美は、感覚的=現実的な衣装をまとった神的な存在なのではありません。
そうではなく、神的な衣装をまとった感覚的=現実的な存在なのです」といっているように、
芸術はあくまでも、感覚的=現実的な形で表現されなけれならず、
そこに高次の自然でもある神的な衣装をまとわなければならない。
そして、そういう形を導き出すためのプレグナント(生産的)な点を
芸術家は見出さなければなたないというのである。

そういうプレグナントな点を持ち得ないまま
形を与えられた「芸術」と称するものは、
やはり、どこか「芸術」とはいえない表現のままになってしまっているように見える。
単なる自然の模倣は芸術ではないし、
高次の自然の表現へと向かわない表現も芸術と名づけることはできないだろう。

以下、シュタイナーのゲーテの美学に関する初期の講義から。

   環境の中から個々の事物を取り出して、それだけを眼の前に置いてみますと、
  多くの曖昧な部分が眼につきます。事物の根底に存する概念や理念に一致して
  いない部分が眼につくのです。現実の中での事物の形成は、その事物自身の法
  則によって生じるだけでなく、周囲の環境の法則も、その形式に直接関わって
  いるからです。その事物が独立して自由に、他の事物の影響を受けずに、発展
  できたなら、その事物自身の理念を十分に発揮できたでしょう。芸術家は、事
  物に内在しているのに、現実の中で十分に自己を開示できずにいるこの理念を
  自由に発展させなければなりません。自然が事物を十分に形成できなかったと
  き、芸術家はその事物の中に、ひとつの「点」を見つけ出さなければなりませ
  ん。その「点」を出発点にして、そこから対象を完全な形姿をとるところまで
  発展させなければなりません。実際、自然は、個々の事物の中では、その本来
  の意図を隠しています。だからひとつの植物と並んで、別の、第二、第三の植
  物を生み出すのです。どんな植物も、完全な理念を具体的な形で現していませ
  ん。或る植物は理念のこの側面を、別の植物はあの側面を、状況が許す限りに
  おいて、現します。しかし芸術家は自然本来の意向にまで立ち戻らなければな
  りません。この意味で、ゲーテは自分の創作態度について次のように語りまし
  た。ーー「多くがそこから導き出せるような生産的(プレグナント)な点を見
  出すまで、私は休まない」。
  (…)
   芸術家は自然は創造するときと同じ原理に従って創造しますが、ゲーテの言
  葉を用いるなら、自然は個体のことを気にしないのに対して、芸術家は同じ原
  理に従いながら、個体に向かうのです。ーー「自然は作り出しては打ち壊す」
  のです。なぜなら、自然は個体によってではなく、全体によって完全なものに
  達しようとするからです。芸術作品の内容は、現実のどこかに存在する感覚内
  容です。これが「何」です。芸術家はこの「何」に形姿を与えます。その形姿
  によって芸術家は自然そのものを凌駕しようと努力するのです。自然の手段と
  法則が可能とする形姿を、自然そのものよりも高次の力で、創り出そうとする
  のです。
  (…)
   美は、感覚的=現実的な衣装をまとった神的な存在なのではありません。そ
  うではなく、神的な衣装をまとった感覚的=現実的な存在なのです。芸術家が
  神的なものを地上にもたらすのは、それを地上に流し込むことによるのではな
  く、地上を神性の領域へ引き上げることによるのです。
   美は仮象なのです。なぜなら、美は、理想世界であるかのように、現実を私
  たちの感覚の前に現出させてみせるのだからです。「何を考えるよりも、いか
  にを考えるほうがよい」のです。なぜなら、芸術の本質はこの「いかに」の中
  にあるのですから。
   何かは感覚的なものであり続けます。しかし現れ方のいかには理念的なので
  す。この理念的な現象形態が最上の仕方で現れるところに、芸術のすばらしさ
  が最高の仕方で現れます。このことについて、ゲーテは次のように述べていま
  す。ーー「芸術のすばらしさは、多分、音楽の場合に最も顕著に表れている。
  音楽は顧慮しなければならない素材を何も持っていない。音楽はすべてが形態
  であり、内実であり、表現するすべてを高貴化する」。
  (シュタイナー『新しい美学の父ゲーテ』筑摩書房
   シュタイナーコレクション7所収/P.41-47)