シュタイナーノート173
古いディオニュソスから若いディオニュソスへ
2012.9.25

「私」はどこから来て、どこに行くのだろう。
そもそも、「私」とはいったいなんだろう。

宮沢賢治は、「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の 一つの青い照明」であり、
「風景やみんなといつしょに せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明」だといったが、
「私」の現れというのは、たしかに「仮定された照明」であるともいえないことはない。
しかし、たとえ「仮定された照明」であるとしても、
「いかにもたしかにともりつづけ」ているのは確かで、
「ともりつづけ」ている以上、「私」は「わたくしといふ現象」とともにあり、
みずからを問い続けないわけにはいかない。
仏教のように、関係性のなかに「私」を置くにしても、
かぎりない頼りなさとともに、
頑固なまでに「私」であることをやめない「わたくしといふ現象」は「明滅」し続けている。

最近では、「精神」としての「私」ではなく、
「身体」としての「私」ということが強調されるようになってきている。
それはある意味、プラトン以降の「哲学」の流れに対して「反哲学」として語られることもある。
しかし、そうした身体性の方向にシフトしすぎても、
「わたくしといふ現象」はどこかで捉えそこなわれてしまうところがある。

たとえば「私の身体」といってみるとしよう。
そのとき、ほんとうに「私の身体」は「私の」身体であり得るのだろうか。
もちろんここでいっているのは、社会的に規定された所有、権利的な「身体」ではない。
よくいわれるように、私の身体のある部分を切り離してみる。
するとその部分は、「私」の「外部」になってしまう。
それを推し進めていくとどうなるか・・・を考えていくと、
そのうちなにがなんだかわからなくなってくる。
しかしだからといって、私の身体(この場合肉体だが)が私でないわけではない。
少なくともそれは「私」と深く関わっている「現象」であるということはいえる。

神秘学では人間の身体性を「肉体」「エーテル体」「アストラル体」としてとらえる。
魂的なあり方も「体」ー「ボディ」ではあるのだ。
そのとらえ方でいえば、単に肉体だけではなく、
生命的な部分や感情や感覚といった魂的な部分まで、
「わたくしといふ現象」としてとらえることができるが、
(肉体のように部分に切り離すことはむずかしいとしても)
その「現象」をどこかで「私」と離れてとらえることもできるかもしれない。

ちなみに、そうした個別的な意味での「肉体」「エーテル体」「アストラル体」以前に、
小宇宙である人間の肉体に働く宇宙的な力、
エーテル体に働く宇宙的な力、くアストラル体の力に及ぼす宇宙的な力があって、
ギリシア神話においては、それらはそれぞれ、
「プルートー」「ポセイドン」「ゼウス」と呼ばれていたという。
私たちのさまざまなレベルの「体」は、
そうした宇宙的な力が個別化して「現象」しているわけである。

さて、肝心な「私」、「自我」に関してだが、
ギリシア神話においては、
人間の自我の中に働く宇宙的な力というのが、「ディオニュソス」であるという。
しかしその「ディオニュソス」は、「古いディオニュソス」であって、
個々の人間としての自我ではなく、
現在のような個々の身体に浸透している個別の自我の対応像というのは、
「八つ裂きにされたディオニュソス」としての「若いディオニュソス」である。

この地上において、個別化した「私」として「現象」するためには、
さまざまな「体」において働く「若いディオニュソス」的な力となる必要があった。
そういう「若いディオニュソス」としての地上遍歴があってはじめて、
現代のような「私」が可能になっているというわけである。
「「八つ裂き」にされないと、「個」として「現象」することができなかったということ。

「わたくしといふ現象」というのは、それほどに特別なプロセスを必要とし、
おそらくはこれからもさまざまな「現象」をしながら、変化していくのだろう。
その「現象」は「生」だけではなく「死」とともにおいても
同様に「明滅」し続けるようにも思う。
「個」でありつつ、また「宇宙的な力」の自覚も伴いながら・・・。

以下、シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』から。

   古代ギリシア人は、自然はすべて霊の力に貫かれている、と見、かつ考えて
  いました。ですから今日のような自然概念は持っていませんでした。このこと
  は、偉大な三神、ゼウス、ポセイドン、プルートーとの関係にもよく現れてい
  ます。実際、小宇宙である人間の中に働くアストラル体の力は宇宙の中にも生
  きています。そしてそのような宇宙の力を超人格的、超人間的に支配する神、
  そのような力の中心勢力を、ギリシア人はゼウスと呼んでいました。そして私
  たちのエーテル体の力の宇宙的な拡がりをポセイドン、肉体の力の宇宙的な拡
  がりをプルートーと呼んでいました。(…)
   プルートーが宇宙に拡大された肉体の力の代表であり、ポセイドンがエーテ
  ル体の力の代表であり、ゼウスがアストラル体の代表であるように、ディオニ
  ュソスは自我の中に働く魂の力の宇宙的な代表なのです。エレウシス秘儀にお
  けるディオニュソスは、自我の中に働く魂の力の宇宙的な代表なのです。
  (…)
   古代において人間の自我意識を準備するために働いたすべての力は、小宇宙
  的に考察すると、古い見霊意識であったことが分かります。そしてそれらの力
  を大宇宙的に考察すると、古いディオニュソスになるのです。それらの力は、
  地球の諸元素のいたるところに働いています。当時の人間の担っていた自我は、
  知的な力を持つ現在の自我ではなく、現在の自我の先行者である古い見霊意識
  でした。この意識は今、潜在意識となって存在しています。当時の人間は、大
  宇宙の力に眼を向け、その力が自我の力を私たちの中に流し込ませているのを
  直観していました。そしてこの力を「ディオニュソス・ザグレウス」と呼んだ
  のです。
  (…)
   ギリシア人の魂は、個々の魂が互いに結びついて統一体をなしていたときの
  意識を知っていました。そのときの人間の魂は、地上を覆い、基本的に互いに
  自分を自我存在として区別し合うことはなかったのです。時代が経過していく
  間に、自我存在は統一したあり方をやめ、一人ひとりの身体の中に別々に浸透
  していきました。
   この魂の在りようの変化がみごとな仕方で、ギリシア神話の八つ裂きにされ
  たディオニュソスとして表現されています。
  (…)
   神話の語るところによると、古いディオニュソスに代表される古い見霊意識
  は、若いディオニュソスの力である後の意識、つまり私たちの自我意識にまで
  発展しました。事実、今日の自我意識と、それが生み出した知的文化とは、第
  二のディオニュソスの中にその大宇宙的な対応像を持っています。(…)
   ではこの若きディオニュソスについて、神話は何を語っているでしょうか。
  彼は私たちの知的な自我の力の大宇宙的な対応像ですので、その知性は、地上
  に普及していかなければなりません。ギリシア人は、若いディオニュソスを、
  知的な自害の大宇宙の対応像として、諸国を遍歴する知性であると考えました。
  (…)
   事実、若きディオニュソスは先史時代のギリシアに人間として生まれたので
  す。そして後アトランティス期の人間としての生涯を過ごしたのです。人類の
  知的文化は、地上に広まりました。私たちの知的自我の大宇宙的な対応像は、
  現実のこの世を生きた「ディオニュソス」という個人、つまり若いディオニュ
  ソスだったのです。
  (シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』筑摩書房
   シュタイナーコレクション4所収/P.93-96/P.138-148)