シュタイナーノート 77

オウエン・バーフィールド


2002.4.13

         明白な事実としては、もし我々が、ほんとに自然を眺めるならば、もし
        我々が、心の底にタブーを持つことなく、自然を観察するならば、自然に
        は内面がないなどということを示す何物も存在しないのである。それどこ
        ろか、その逆の方が正しいことを示す、あらゆる証拠がある。「本能」と
        いう概念一つ取っても、それがどう解釈されようと、前に述べたことを示
        している。というのは、本能とは、自然の中に働いている、超個人的な知
        恵としてでなければ、理解することはできないし、正当に考えることもで
        きない。(…)
         さて、ついに我々は、今まで述べてきたことに、何らかの意味があると
        すれば、言語の性格のすべてと、その歴史のすべてとが、我々に大声で語
        っているものを、無条件に受け入れることができる。すなわち、宇宙の歴
        史において、物質が精神に先行したという、現在支配的な前提は歴史的な
        誤謬であり、しかも残念なことに、その影響が大変よく浸透した誤謬だと
        いうことだ。今や明らかになったことは、個体発生的にも、主体性という
        ものは、空間の一点において、無から生じた、というものではなく、周辺
        から個人の中心へと縮約していった、意識の一形態なのである。系統発生
        的に言えば、地上に初めて、一種の有機体として出現したときの、ホモ・
        サピエンスの課題は、無から何かの形で、思考能力を発展させることでは
        なく、彼が与えられた意味として、自分という有機体を通して経験した、
        不自由な知恵を、能動的な思考にのみ対応する主体性へと、また、個人的
        な思考活動へと変えていくことであった。
         ちょうど、哲学の歴史が、この長期間の過程の最後の段階を反映してい
        るように「主体(主語)」とか「主体的(主語に関わる)」などの単語の
        意味の歴史は、哲学の歴史を反映している。かくて「主体的(主語に関わ
        る)」という語の十七世紀における辞書的な意味は、オックスフォード英
        語辞典において、用例を交えつつ、次のように説明される。すなわち、
        「物事の真の本質に関わる」とか「真の」とか「本質的な」である。更な
        る辞書的な意味を但し今度は、ただ十八世紀の前半にさかのぼって眺めて
        みると、「人間精神の中に、その源を持つ」ということである。同じ十八
        世紀の後半になると、次のようである。「個人的な主体に、あるいはその
        個人の精神活動に関わる、あるいはそれに固有の……個人に特有の、個人
        的な」。
         ここまでにおいては、この語は、実在という意味の含蓄を含みながら、
        個人の(精神)活動への強調が、絶え間なく増していく。この語の意味が、
        ある一点において、ひっくりかえるのは、十九世紀後半になってからであ
        る。「真の」とか「本質的な」という辞書的な意味を持っていたこの形容
        詞が、その時期になって、次の意味を持つ形容詞へと変わるのである。す
        なわち、「頭の中だけに存在して、それに対応する実体の何物もない」と
        か、「幻想的」「空想的」となる。
        (オウエン・バーフィールド『言語と意味との出会い』
         朝倉文市+盛田寛一・共訳/人智学出版社1983.8.15発行/P100-102)
 
オウエン・バーフィールドのことは、
シュタイナーとも深く関係していることや
最近映画の影響もあって一気にポピュラーになった感もある
『指輪物語』のT.R.トールキンや
「ナルニア物語」のC.S.ルイスなどとも交流があったということから
ずっと気になっていたのだが、
10年以上まえに偶然見つけて購入していた本書をやっと読むことになった。
やはり物事には「機」というものがあるのかもしれない。
 
今回のきっかけは、ひとつには、先頃古書店で、
中公文庫の『英語の中の歴史』を見つけその内容に興味を引かれたこと、
もうひとつには、佐藤公俊さんのHPにあった次の記事である。
 
●シュタイナーと神智学―バーフィールドの理解―
http://members.aol.com/satoky/anthro.html
「シュタイナーと神智学―バーフィールドの理解―」によれば、
オウエン・バーフィールドの「東洋から西洋へ」という1929年の論文は、
英語圏に人智学を伝えるのに多大な貢献をしているらしい。
 
●ナルニアへ行く道
http://members.aol.com/Satokimit/narnia.html
 
さて、今回引用させていただいたところだが、
「言語と意味との出会い」に歴史という観点から
アプローチしている本書を読み進めていくと、
私たちはいかに現代において「タブー」のもとに発想しているか、
ということがわかる。
 
そのタブーというのは、
物質が精神に先行していることに疑いを挟んではならない、ということ。
「自然」は「物」であって、そこに「内面」などはない。
私たち人間の「内面」や「思考」などというものも、
物質の展開のなかで発生してきたのだということを前提にした発想である。 
いわば、科学の勝利によって、物質がすべてであり、
そこから人の心も現象している、心を生み出しているのは脳だ、云々、
それは強固な洗脳状態であるにもかかわらず
そうしたタブーをタブーだとさえ認識できないがゆえに
それが事実に即しているものだとされてしまっているわけである。
いわゆるシュタイナー教育とされるものでさえ、
霊魂体の「霊」を「いのち」、「魂」を「心」とか
読み替えることを積極的な営為であると信じてしまうのも、
そうしたタブーから逃れられないきわめて現代的なあり方なのだろう。
 
ともあれ、こうしたオウエン・バーフィールドのように
たとえば言語をその根底からとらえようとするアプローチの背景に
シュタイナーの精神科学が働いているということは見逃せないところである。
 
「ハリーポッター」や「千と千尋」、そして「指輪物語」のような
かつてのエンデの「モモ」や「果てしない物語」とは比較できないほどの
昨今のいわゆるファンタジーブームも、
そこにある認識の深みの有無はともかくとして、
精神科学的な認識へと向かう時代霊的なインパルスのひとつではあるのかもしれない。
 
とはいえ、常に念頭になければならないのは、
先日yuccaの訳了したばかりの
シュタイナーの『人智学の光に照らした世界史』の第9講にも次のようにあるように、
「ファンタジーが気に入ったので、その背後に人智学も気に入るかもしれない」
という発想がいかに認識的な不誠実であるかということだと思われる。
 
        ひとはこうは言わないでしょう、あそこにオイリュトミーを持っていこう、
        人々がまずオイリュトミーを見て、人智学について何も知らないなら、オ
        イリュトミーは彼らの気に入るだろう。それからその後、オイリュトミー
        が気に入ったのでひょっとしたら彼らはやってくるかもしれない、そして
        オイリュトミーの背後に人智学があることを知るかもしれない、そうした
        ら人智学も彼らの気に入るだろう、と。(…)
        私たちは、このようなやり方をとることを不誠実とみなす勇気を持たなく
        てはなりません。私たちがこのようなやり方を不誠実とみなす勇気を持ち、
        そういうことに内的な嫌悪を覚えてはじめて、人智学は世界へと通じる道
        を見出すことでしょう。
 
人智学であるとか精神科学であるとかいう名称は別として、
オウエン・バーフィールドのように、あるテーマに対して
認識的に誠実に取り組もうとする姿勢さえあれば、
実質的に精神科学的な方向に進まざるをえないのではないかと
少なくともぼくは痛切に感ることが多い。
そういう意味でも、現代においては、
先に述べたタブーがみずからに何の根拠もなく働いているものであることを
認識した上で、そうしたタブーに連なるさまざまなタブーを問い直し、
それを超えていこうとする勇気が必要なのではないだろうか。
 
 

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