シュタイナーノート 79


2002.6.13

         瞑想によって世界との正しい関係を獲得するために、私はたえず自分にこう
        言い聞かせた、ほら、そこに謎に満ちた世界があるではないか、認識がこの謎
        めいた世界へ近づくことを望んでいるではないか、と。世界はいつも一つの謎
        の解答として一つの思想を用意する。しかしあまたの謎はーー私が自分に言い
        聞かせねばならなかったようにーー思想によっては解決できない。思想は解決
        へ向けて人を導きはするが、解決そのものを含んでいるわけではない。謎は現
        実の世界に発生し、現実の世界に現象として存在する。それ故に、その解決も
        現実の中にある。謎は存在や現象として現実中に姿を現わし、それがもう一つ
        の解答となる。
         私はまた次のようにも考えた。人間を除いて世界全体が一つの謎であり、こ
        れこそが真の世界の謎なのだ。そして人間自身がその解答である、と。
         この認識を更に突き詰めて、私は次のようにも考えた。人間はあらゆる瞬間
        に世界の謎に対して何らの解答を提出することができる。しかし人間は人間で
        ある自分自身について認識している限りでしか答えることができない、と。
         こうして認識も現実の一つの出来事となる。疑問が世界に現われる。すると
        それに対応する答えが現実として現われる。人間における認識とは、したがっ
        て、霊的世界と物質的世界の存在や出来事が人間に伝える事柄に積極的に関与
        することである。
        (シュタイナー『シュタイナー自伝II』ぱる出版/P100-101)
        *この記述は、自伝において、ワイマール時代の終わり頃、
         シュタイナーが36歳の頃についてのもの。
 
世界は謎に満ちている。
そして、人は世界の謎に直面し
(直面し得るためには、まずそこに謎を発見/創造しなければならないだろうが、
つまり、問うことができなければならないだろうが)
その謎の答えを得ることを生の意味ともすることができる。
 
しかしその謎を、自分を離れて
どこか自分の外にあるものとしてとらえるならば、
その謎は、いつも目の前にぶら下げられていて
決して得ることのできないままに走り続けるためのニンジンでしかないだろう。
それはいつも焦燥を伴った憧憬の対象であり続けるだろうが、
それがいったい何であるのかに気づかない限り、
謎への答えは決してかりそめの自己満足のようなもの以外として
得られることはないのではないか。
 
世界全体が一つの謎であり、人間自身がその解答である。
そして、その答えは、自己認識に応じて現われてくるとするならば、
まずはその自己認識という現実に直面してみる必要がある。
私はまずみずからに問うことでその答えへの開けを見出す道を得る。
 
問いと答えは別のものではない。
問いと答えは往々にしてその顔がすげ替えられる二重螺旋のようなもの。
私が答えを得たように思う。
すると、新たな問いがそこには姿を現わすことになる。
そしてその問いに対する答えを得ようと自己認識の鏡にその問いを映し、
そこに映る答えを提出しようとする。
 
私は答えるためであるというよりも、
問うためにこそ、世界にこうしてあるのではないか。
問うことで私自身が答えとなるために。
私はなぜ存在しているのか。
その問いの前では沈黙を余儀なくされるのだが、
その沈黙のなかで、いや沈黙を変容させるために、
私自身が答えとなり得るようみずからを創造しようとしているのかもしれない。
 
 

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