シュタイナーノート 80

自然と霊の統一体の理念


2002.7.7

         私は「霊」は自然の懐から「現れてくる」と再三語っている。しかし、ここで
        いう「霊」とは、何を指しているのか。それは、人間の思考作用、感情作用、意
        志作用から「文化」を産み出すものすべての謂である。当時、別の「霊」につい
        て語ろうにも、それはまったく無益であったろう。人間に霊として発言するもの
        と自然の根底に横たわっているものとは、霊でも自然でもなく、その両者の完全
        な統一体なのだ、と私が述べても、おそらく誰も理解してくれなかったろう。こ
        の統一体、すなわち創造する霊は、物質をその創造過程で存在せしめ、そのこと
        により同時に、自らが完全に霊であることを証明する物質なのである。つまり、
        この統一体は、当時の思考習慣から隔絶する理念によってのみ捉え得るものであ
        る。地球および人類の発展の起源、そして今日でも依然として人間自身の裡で活
        動している霊的・物質的諸力を描こうとするなら、この自然と霊の統一体の理念
        は、どうしても論じておくべきであった。人間内部のこの霊的・物質的諸力が、
        一面では、人間の身体を形成し、他面では、生き生きとした霊的存在を人間自身
        の裡から発生せしめているのであり、人間はこの霊的存在を通して文化を創造す
        るのである。しかし人間の外部にある自然を論ずるとしたら、その外的自然にお
        いては、根源的に霊的にしてかつ物質的なものは抽象的自然法則の網の目の中で
        死滅してしまっていると、語るべきであったろう。
         しかし、私にはこうした事柄を全部、語り尽くすことはできなかった。
         それは自然科学的経験と関連づけて述べることができただけで、自然科学的思
        考と関連させるまでには到らなかった。自然科学的経験の中には、世界と人間の
        有様を真の霊に満ちた思考を展開する人の心の前に、煌々と照らし出す何かが含
        まれていた。この何かの中からこそ、これまで信仰的信条として伝統的に守られ
        信じられてきながら、いつの間にか失われてしまった霊は、再発見され得るので
        ある。私はこの霊と自然とを統一する見方を、自然経験から汲み出そうとした。
        私は、「此岸」において霊的自然的存在として、本質的に神聖なものとして、見
        出し得る存在について述べようとした。なぜなら、伝統的に守られてきた宗教的
        信条においては、「此岸」の霊を認めず、したがって「霊」を知覚可能な世界か
        ら分離してしまったために、神聖なものは「彼岸」的存在と化してしまったから
        である。「此岸」の霊は、人間の意識にとって、ますます如何ともしがたい強力
        な暗闇の中に没してしまった。神的・霊的存在を拒絶するのではなく、それを世
        界の中に位置づけ、「此岸」に呼ぶ出すこと、これこそ、私が「自由文学協会」
        のために行ったある講演の中で、述べたかったことである。その講演の中の文章
        を抜き書きしてみると、次の通りである。「自然科学は、これまで私たちが考え
        てきた以上に美しい形式で、私たちに自由の意識を回復させてくれることができ
        ると思われます。私たちの心的生活には、惑星を太陽の周りに公転させている法
        則と同じような自然法則が、作用しています。しかしこの法則は、他のあらゆる
        自然よりもはるかに高次の何かを呈示しています。この何かは、人間の内部以外
        のどこにも存在していないものです。この何かから流れ出してくる世界の中にあ
        ってこそ、人間は自由なのです。人間は有機体や非有機体の法則に付き纏う硬直
        した必然性を乗り越え、自分自身の裡なる声にのみ耳を傾け、それに従うのです」。
        (シュタイナー『シュタイナー自伝II』ぱる出版/P143-145)
        *上記引用は、シュタイナーのベルリンでの『雑誌』編集時代についての記述から。
 
シュタイナーの精神科学においてもっとも重要な理念は、
まさにこの「自然と霊の統一体の理念」なのではないかとかねてから思っている。
この「理念」への誤解ゆえに、
シュタイナー理解がどこか変な方向にいきがちであるとも。
 
たとえば、最近では、シュタイナーの使っているGeistを
おしなべて「精神」と訳したがる傾向にもそれは顕著に現われている。
精神科学はGeisteswissenschaft、霊学とも訳することができ、
この場合には、個人的にいえば日本語にするとき、
霊学とするよりも精神科学というふうにするところもあるのだけれど、
このGeistをすべて「精神」と訳してしまおうとする傾向は
二つの方向で、「自然と霊の統一体の理念」をスポイルしてしまいかねない。
 
「霊」という言葉を使いたくないという性向は、
その「霊」を、テレビ番組で「霊を見た!」とかがあるような
かなりいかがわしいまでの心霊現象的な「霊」のイメージを
払拭したいということがあるのだろうということは理解できるが、
たとえば、「一霊四魂」というような神道における使い方や
聖書で使われているような「霊」という言葉の使い方などを
考慮にいれているのだろうかなどの疑問が浮かばざるを得ないし、
「精神」という言葉は「精神性」というような意味で使われると同時に
「精神病」などという使われ方もすることなども考えてみると、
問題なのは、「霊」という言葉を避けることにないのは明かであるように思われる。
まして、「魂」という言葉を「心性」とかい言葉に置き換えて
それを使わないで済ませようとする在り方などは問題外である。
 
重要なのは、まさに「霊」「精神」としてのGeistが
いったいいかなる理念のもとに使われているかということであって、
それを恣意的な「配慮」で訳すようなことではないのではないだろうか。
「創造する霊は、物質をその創造過程で存在せしめ、
そのことにより同時に、自らが完全に霊であることを証明する物質なのである。」
まさにこのことが重要で、これが理解されないGeisteswissenschaftというのは
あり得ないということはまず確認する必要がある。
 
これが理解されないと、
無造作に使われることの多い「自然はすばらしい!」というときの「自然」のように、
少し考えてみるだけで、その自然というのがいったい何なのかわからなくなってしまうし、
「精神」と使うことで、「物質」のことが隠蔽されてしまっても気づかなくなることになる。
 
「神的・霊的存在を拒絶するのではなく、
それを世界の中に位置づけ、「此岸」に呼ぶ出すこと」
そのことがまさに精神科学でもあるのであって、
「神的・霊的存在を拒絶」したかのように、「霊」という言葉を避けようとすることで、
なにかそこに高次の精神性ばかりをみようとしたり、
宗教的な世界と混同して「心」だとか「彼岸」ばかりを問題にしようとしたりすると
それは、唯物論の変形であったりそのアンチとしての宗教的逃避であったりすることになる。
 
 

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