シュタイナーノート 81

栄養摂取


2002.12.9

         人びとは栄養というものは、人間が自分の周囲にある物質を食べること
        だと信じています。すなわち、人間は物質を口の中に放りこむ、物質は胃
        の中に入り、ここで一部分が吸収貯蔵され、他の部分が出ていく、貯蔵さ
        れたものは消費され、そしてそれもまた排泄され、また補給が行なわれる、
        このように今日の人びとは、栄養摂取をまったく外面的な形で考えている
        のですが、じつはそうではないのです。人間が自分の胃をとおして摂取す
        る栄養物によって、骨格や筋肉やそれ以外の組織が形成されるということ
        は、徹頭徹尾人間の頭部にしか当てはまらないことなのです。消化器官と
        いう回り道を通って加工され、人間の体内に広がっていくものはすべて、
        頭部及び神経感覚系とそれに付属する器官の中に貯蔵されているすべての
        ものにとっての形成素材であるにすぎないのです。これに対して、たとえ
        ば四肢組織ないしは新陳代謝器官のための物質、たとえば脚部や腕の管状
        骨を作るために必要な物質や、新陳代謝ないしは消化作用のための腸を形
        成する物質は、けっして口および胃をとおして摂取された栄養から作りだ
        されるものではなく、これらは呼吸および感覚器官をとおして周囲の世界
        全体から摂取されるのです。人間の内部においては絶えず、胃をとおして
        摂取されたものが上昇していき、頭部内で消費され、逆に頭部ないしは神
        経感覚系の中で空気およびそれ以外の周囲の世界から摂取されたものは下
        にくだっていき、それから消化器系の諸器官と四肢とが作りだされてくる
        というプロセスが生じているのです。
        (…)
        人間は実質的には、四肢・新陳代謝組織つまりその肉体機構に関しては、
        宇宙的な実質から作りあげられているのです。ただ神経感覚組織のみが、
        地球的ないし地上的物質から作られています。
        (シュタイナー『農業講座』イザラ書房/2000.5.15発行/P31-32)
 
宮沢賢治の『注文の多い料理店』の「序」に、こうある。
 
        わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとお
        った風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができます。…
        わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あな
        たのすきとったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわか
        りません。
 
宮沢賢治の食べていた「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜」は
その神経感覚組織をつくり、
「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」ものが
四肢・新陳代謝組織をつくっていたわけである。
 
強制収容所での極度に劣悪な食環境のなかで生き延びた人の話に、
むしろその乏しい食を分け与え、少しなりとも文化的な活動を絶やさないことで、
そこでの過酷な生活を生き抜いたというものがあるが、
これもまた精神科学的な観点からの栄養摂取を考えてみたときに
重要な示唆を含んでいるように思える。
 
食べ物が身体をつくる、というのはわかりやすいが、
息をしたり、見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったり、味わったり…
ということが身体をつくるというのを
抽象的なムード論ではなく、具体的に理解するのはむずかしい。
むずかしいというより、そうした視点そのものの重要性が想定されにくい。
たとえば、暗闇で感覚器官の働きをかなり制限された状況のなかでは、
人は極度に衰弱していくらしいのだが、
感覚から摂取されるものの重要性が示唆されているように思える。
 
以前、旧版の『農業講座』をはじめてよんだときも
この観点は印象深かったのだけれど、
先日来新訳を読み直しているなかで、
あらためてこの点について考え直してみる必要性を痛感させられた。
自分の日々食べているものだけではなく、
感受しているさまざまなものの質がどうあるかということ。
はたして健全に身体を形成していけるだけのものを採り入れているかどうか。
 
宮沢賢治のいっていることをただのファンタジーではなく、
具体的な精神科学的事実として探求していくことが重要であるように思う。
シュタイナーの示唆しているさまざまなことは、
一見すると空想であるかのように思えてしまうようなところもあるのかもしれないが、
その実、非常に具体的であって、
なおかつその宇宙的プロセスがそのままポエジーになっているのがわかる。
農業に関することや医学に関することを見ていくと
とくにそれが実感されてくることが多い。
 
森羅万象が、ただファンタジーとしてというのではなく、
酸素や窒素にいたるまで、まさに生きていて、
それをどれほど私たちが認識できるかによって
無限のポエジーがそこで展開されているのがわかる。
植物や動物のようには生きていると思えないような岩石や鉱物が
いかに宇宙的プロセスを生きているか。
そのポエジーをどれほど垣間見ることができるかが、
私たち人間にとってどれほどの恵みになっていることかが実感されるのである。
 
 

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