シュタイナーノート 82

わかりやすさの落とし穴


2002.12.9

         今日の人間は、世界観を形成すべきとき、たいていの場合、本当に素早く
        仕上げます。できるだけ早く、完全な世界像を得ることを望みます。多くの
        人が、唯物論が自分の考えに近く、簡単だという理由から唯物論者になって
        いることが、事情を知る者には明らかです。どのように人間は進化したかを
        スライドで示されたりすると、純粋に唯物論的な事実から、世界の構造を容
        易に見渡すことができます。日常生活で慣れ親しんでいる表象から、世界の
        進化の歩み全体を追っていけます。思考力を使うことを要求されないので、
        唯物論者が世界の謎について語ることに、容易についていけるのです。
         精神科学においては、そのように容易ではありません。精神科学は、「世
        界の秘密は深く、世界を理解しようとするなら、事物の根底を深く探求する
        ように努力しなければならない」という前提から出発するので、容易な道で
        はないのです。精神研究が人間と世界について述べることは、思考をさまざ
        まに錯綜させます。小さなことに沈潜するのを強いたり、大きな展望に導い
        たりします。それはある結果をもたらします。
        (シュタイナー『あたまを育てるからだを育てる』
         西川隆範訳 風濤社/2002.11.30発行/P150-151)
 
わかりやすい、というのが必ずしもイケナイというわけではないけれど、
わかりやすさには大きな落とし穴があることが多いのは確かだろうと思う。
もちろん、わかりにくいことは必ずしも深い内容があるとはかぎらないし、
わかりにくさを目的にしているかのような在り方には異議申立をしたほうがいい。
わかりやすさにせよ、わかりにくさにせよ、
それらが目的になってしまったら、本末転倒になるということだ。
 
シュタイナーの精神科学はわかりにくい。
わかりやすいという人もいるかもしれないし、
わかりやすく表現しようとする試みも必要なのかもしれないが、
実際のところ、知れば知るほどにわからなくなってくるところがあったりさえする。
そして自分がいったい何を知り得ているのかということを思うと
なかば絶望的な気分になったりもする。
なにしろ扱っている領域が広大で眩暈がしてしまうほどなのだ。
とはいうものの、ぼくにとっては、ほかのどんな世界観よりも、
総合的に見て納得せざるをえないものであり、
そこに生きている、絶望を凌駕しえるだけの「理念」がぼくのポエジーをかきたててくれる。
 
シュタイナーをわからないというのは容易なことだし、
たとえば、そのキリスト観については受け容れられないということなども容易なことである。
現代において流布しているような世界観のなかで
「日常生活で慣れ親しんでいる表象」のもとで理解しようとすると難しいのだろうけれど、
理解できないがゆえに、苦手な道を避けて通り、
自分の思いこみを投影したいところだけで
自分のなかでの整合性をつけようとしてもなにも生まれない。
これも、わかりやすさを目的にしようとする弊害だろうと思う。
 
自分のなかで認識を少しずつ深めながら
さいしょは茫洋としてつかみがたかった世界観とその具体的な理念が
最初はただの種でしかなかったものを植えることで、
芽をだし葉をつけ育っていくのは、この上ない喜びでもある。
それが待てないばかりにええい!と芽を摘んでしまって、
すぐに結果を食べることのできるものだけを
ファーストフードばりに食べることもできるのだろうが、
その「食」の結果がどうなるのかも推して知るべしだろう。
 
世には、ハウツーものやファーストフード的な知識があふれているだけに、
最近少しずつ見直されてきている「スローフード」の喜びも
再認識されてよいのではないかと思うのだけれど…。
 
 

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