シュタイナーノート 83

受容の問題


2003.2.20

        ルイスがバーフィールドに対してぶつけた批判のひとつは、シュタイナーの受容に
        関してだった。ルイスはどうしても人智学にアプローチ出来なかった。誠実で立派
        な学者であり想像力豊かな芸術家であるルイスに、なぜそれが出来なかったのか?
        この問いはとてつもなく大きい。なぜなら、ルイスはうかつな発言を決してしない
        慎重な人で、ごく一部引用するために、その人物の全集を読破する人だからだ。そ
        のルイスがなぜシュタイナーの基礎文献をほとんど読まずに、拒絶し、さらにバー
        フィールドを「シュタイナー信仰」から転向させようとしたのか? バーフィール
        ドはいつでも自分の思想の源泉がシュタイナーによる人智学にあることを隠さなか
        ったから、ルイスが自分の高く評価するバーフィールドの思弁と感覚は人智学と関
        わっているのではないのかと思うのが普通だからだ。
        不思議なことに、ルイスはキリスト教に入った。そして、2人の間で行われた活発
        な意見交換は一方的に途絶えてしまったのである。いったい何故?
        そう訊きたいのは、私だけでない。
        「佐藤公俊のホームページ」(03.2.19)より
        「オーウェン・バーフィールド、C・S・ルイスを語る」
        http://homepage.mac.com/satokk/ob_on_csl.html
 
このエピソードは、人が何かを受容できるかどうかということには
(受け入れるとかいう以前にそれを見てみようと思えるかどうかということ)
きわめて複雑な問題がそこにあることを示唆しているように思える。
 
人はなにかをタブララサ的に受容しているのではなく、
なんらかのメガネをかけることで受容している。
そのメガネはあるものを特定の仕方で見るためには有効なのだが、
その見方を根本から損ないそうなものを見ることはできない。
そのメガネはそれをかけていることそのものが
その人のレーゾンデートルになっていて、
それを害するということはその人がその人であることを
根本において変容させることが必要になる。
 
人は自分が偏見に満ちた存在であること、
少なくとも偏狭であるかもしれないということを
認めることはなかなかできない。
なにかがわからないということは自分の責任ではない。
そんなものわかる必要などないのだ。
そういうすり替えは日常茶飯のことで
それが具体的に問題を生じさせない限りそこに「揺れ」は起こらない。
たとえ「揺れ」が起こったとしてもそれをなにかにすり替えて安心しようとする。
 
人がなにかを受容し得るということは、
そのときまでにそれなりの受け皿をもっているということ、
またはたとえ受け皿はなくともそれを受容するための
なんらかの条件がそこにあるということである。
それはその人個人における認識の必要性の問題であることもあれば、
その人が関係している集団において
それが集合的な形で受容されていることもあるが、
多くは集合的な形をとることが多いように思える。
みんなで渡れば怖くなくて安心ということである。
もちろんみんなで渡るが故にこそほんとうはコワイのだけれど。
 
今読んでいる甲野善紀『古武術からの発想』(PHP文庫)のなかに
次のような話がでてきた。
 
        Iさんや精神科医の名越氏などから解説されてわかってきた、科学者が抱えて
        いる非常に根深い問題は、自分のプライドと同時に自分の権益をも守ろうとい
        う意識が強いということです。
        Iさんの話によれば「一度、いったいどこまでが“科学として扱える現象の範
        囲なのか”を検討してみましょう」という話を出した時に、激しい勢いで上の
        人から「そういう問い自体がナンセンスだ」と攻撃されたことがあったそうで
        す。
        Iさんによれば、科学の世界にも、いわば「この業界の礼儀」というものがあ
        って、いくら事実であっても、それが学問として扱えるかどうかを事前に考え
        て、自分達の手に合いそうなものならやる、そうでなければ無視する、という
        ことが、ごく当然のこととしてまかり通っているそうです。
        つまり、本来ならば、真理、真相を追求するはずの学問が、そういうことより
        も、自分の地位とか権威を保つことの方に関心が向いているんですね。
        こうした話なんかを聞いていると、先ほど話しました合気道の笑い話ーー久し
        ぶりに合気道の稽古に行った人が、そこの先生に技をかけてもらおうと打って
        いったら、そのまま手が当たってしまって、その先生に「お前は稽古が足りん
        ぞ。ちゃんと稽古していたら、ワシの“気”を感じて、打ち込めないはずだ!」
        と怒られたというエピソードーーと同じようなことが、こうした学問、それも
        最も客観的な冷厳さを持っているはずの科学の世界でも、起きているといえる
        ようですね。
        (P40-41)
 
そうした科学者や武道家は、ただ単にプライドや権益を守ろうというだけではなく、
そういうことになっている世界に生きているだけのことかもしれず、
問題はまさにそこにあるのだといえるのかもしれない。
その人の「世界」はその内部にあるのであって、その外部にはないというか。
 
そして多かれ少なかれ、どんな人も、もちろんぼく自身も例外ではなく、
そういう在り方からまったく自由であることは難しいのが実際のところで、
それ故にこそ、自分のなかにそれまでのメガネではない別の可能性が見えたときどうするか。
そこに受容の問題がでてくるように思われる。
 
C・S・ルイスは、バーフィールドが見せてくれそうな「人智学」対して背を向け、
「キリスト教」という世界のほうを受容した。
なぜなのか。
そうした受容態度にある、きわめて根深く複雑な問題について、
意識してみることは決して意味のないことではないだろう。
少なくとも、自分が何に対してそれに類似した態度をとっているかを
意識してみることで自分に「揺れ」を起こしてみることもできるのだから。
 
そして、たとえば日本におけるシュタイナー受容の在り方を見る際にも、
なにがどのように受容され、また受容されないか、
もしくはどこにある種のバイアスが潜んでいるかを見ていくこともできるだろうから。
 
 

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