シュタイナーノート 86

キリスト教と古代密儀


2003.5.2

キリスト教はかなりわかりにくい。
キリスト教だけではなく、宗教というのはおしなべて
ぼくにとっては謎のようなものなのだけれど、
とりわけキリスト教というのは謎のように見える。
とくに、キリスト教とキリスト衝動とのあまりに矛盾してみえるような関係は。
 
シュタイナーのキリスト存在およびキリスト衝動に関する記述で、
ようやくその重要性がわかりかけてきているものの、
実際のキリスト教との隔たりのように見えるものがぼくを混乱させたりもする。
そのあまりに大きな振幅・・・。
 
以前から気になっていた「背教者ユリアヌス」。
もちろんそのなかに秘儀的なものが描かれているわけではないのだけれど、
辻邦生の大作『背教者ユリアヌス』を読み始めている。
読みながらあらためて、キリスト教を拡大させたのは、
真のキリスト認識なのではなく、
かなり盲目的にも見える信仰であったようにしか見えない。
 
        ユリアヌス[Julian]
         背教者と言われるローマ皇帝(332-363)。エレウシス密儀に参入して、
        太陽の三重の秘密を知り、密儀の復興に尽力した。ミトラ密儀を知るために
        ペルシアへ向かう途中、キリスト教徒に殺された。のちに聖杯の騎士パルチ
        ヴァルの母ヘルツェライデ、天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601)と
        して生まれ変わる(ティコ・ブラーエは、ドイツの哲学者シェリングに霊感
        を送った。
        (西川隆範『シュタイナー用語辞典』P275)
 
上記の引用のように、キリスト教徒に殺されたユリアヌスについて
シュタイナーの述べているらしいことをとりあえず調べてみると、
なぜかシェリングの名前がでてきた。
シェリングの、特に後記の思想の理解されにくさというのは、
ひょっとしたらそこに流れている古代密儀的な衝動の影響もあるのかもしれない…。
 
それはともかく、『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』において、
シュタイナーはキリスト教と古代密儀の関係を次のように述べている。
 
         言葉は、魂の内部で霊となるというのが、ネオプラトニストの結論である。
        これに対して、言葉は、イエススを通じて肉となったと結論するのが、ヨハン
        ネスの福音書であり、キリスト教会である。言葉が単独で肉となりえた経緯の
        詳細な意味合いは、古代の世界観照の全体の展開から説明することが可能であ
        る。プラトンは、大宇宙について、神が宇宙の肉体の上に、十字架に宇宙の魂
        を張り拡げたと語っている。この宇宙の魂がロゴスにほかならない。ロゴスが
        肉となる場合、肉の存在として、宇宙の創造過程を反復しなければならない。
        ロゴスは、十字架にかけられ、復活しなければならない。キリスト教のこの最
        も重要な思想は、霊的な表象として、とうに古代の世界観照のなかに下絵が画
        かれていたのである。秘教家は、この経過を、「秘儀伝授」のさいに、個人的
        に体験していた。この経過を、全人類に通用する事実として体験しなければな
        らなかったのが、ほかでもない「人となったロゴス」であった。つまり、古代
        的智の展開の内部では、密儀的出来事であったことが、キリスト教により、歴
        史的事実となったのである。これによって、キリスト教は、単にユダヤの預言
        者が預言したことの成就であっただけでなく、密儀が予示していたことの実現
        ともなったのである。−−ゴルゴタの十字架は、古代の密儀祭礼が収斂して、
        事実となったものなのだ。この十字架は、まず、古代の世界観に現われ、次い
        で。全人類に向けられた一回限りの出来事の過程で、キリスト教の出発点に現
        われるのである。キリスト教のもつ神秘的な面は、こうした観点から理解する
        ことができる。神秘的事実としてのキリスト教は、人類の成育過程での一つの
        発展段階なのであり、密儀での出来事と、それから生じた影響が、この神秘的
        事実を準備したのであった。
        (シュタイナー『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』
         石井良訳/人智学出版社177-178)
 
「ロゴス」が「人となった」ということにおいて、
おそらくはキリスト教という現象の大きな矛盾のような振幅が
現出してきたのかもしれない。
 
このキリスト教という現象は、上記引用のような内容を理解するにつけ、
「いわゆるキリスト教」という現象としてだけ理解しようとすると、
ますますわからなくなるばかりなのだけれど、
『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』の訳者によるあとがきに
次のように引用されているシュタイナーの講義内容からも
その「キリスト教」をその名前にとらわれず、
キリストという全人類的な衝動であると理解することで、
謎へのアプローチの一端になるかもしれない。
 
        キリストの宇宙的意味合いは、キリスト教的なヨーロッパ人に語りうるのと同
        様に、ユダヤ人、中国人、日本人、インド人のいずれにも語りかけることがで
        きる。それによって、一方では地球上におけるキリスト教の今後の展開に、他
        方では地球上の人類の発展にきわめて重要な展望が開けてくる。なぜなら、現
        実にあらゆる人間が同じように理解できる心魂内容への道が求められる必要が
        あるからである。(『ゴルゴタの秘儀認識のための構成因』1917年)
 
        キリストは、あらゆる人間のために死んだのであり、キリスト・インパルスは
        全地球の力となったのである。こうした客観的な意味合いにおいて……キリス
        トは、ユダヤ人、異教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒等々のいずれ
        のためにも存在しているのである。そのためにキリストは存在する。キリスト
        は、ゴルゴタの秘儀以来、地球・人類発展の諸力のなかに働いているのである。
        (『太陽の秘儀および死と復活の秘儀』1922年)
 
ところで、人智学に関連した動きのなかにも、
おそらく公教的なキリスト教と秘教的なキリスト教とのあいだの
大きな振幅のようなものがあるのかもしれない。
しかし、人智学、精神科学は、公教と秘教の境を
とりはらったところで成立するものであるだけに、
認識ぬきの人智学(というのはほんとうはないはずのだけれど)があるのだとすれば、
なんだか困ったことになってしまうような気がやはりしてしまうのだ。
どんなに稚拙にみえる歩みでしかないとしても、
精神科学的認識を伴ったものにすることが、
かつての「背教者ユリアヌス」とキリスト教徒のような悲しい関係を
なくすためには必要なことなのだろうと思う。
 
 

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