シュタイナーノート 89

しかし、ヘル・ドクトル


2003.6.11.

         ゲーテアヌム労働者講義は、ルドルフ・シュタイナー全集でも347から354の
        ナンバリングを与えられた大部なものなのである。しかも記録される以前からルドル
        フ・シュタイナーは労働者に話をしていたのである。…また、労働者講義以外では触
        れていない話題も数多くあるのである。…「しかし、ヘル・ドクトル」と始まる言葉
        が何度も発される。けっして反発や敵対心から出た「しかし、ヘル・ドクトル」では
        なかった。真実を追究する同じ基盤に立った者として、労働者たちは発言したのであ
        る。協会員向けの講義では質疑応答の時間があっても、このような自発的な反応と交
        流は見られない。…
         さらに驚くべき事実がある。マリー・シュタイナーやイタ・ヴェークマンなどごく
        少数の者を除けば協会員は聴講を許されなかったのである。…
         話題は自分たちで決めるようにという約束どおり、労働者はほんとうに聞きたいこ
        とを聞いた。そのために、その日の午後に開かれた協会員のための講義で、労働者と
        こんな話をしたとうれしそうに報告することすらあった。「労働者に植物の色は去年
        の影響から生み出される」と話をしたら、「それなら鉱物の色はどのようにして決ま
        るのか」と聞かれたとシュタイナーは語っている。『治療教育講義』でルドルフ・シ
        ュタイナーが聴講するメンバーの自発性のなさに烈火のごとく怒る場面があるが、そ
        こでも彼は労働者を引き合いに出して、これからは聞きたいことを自分で考えてきな
        さいと命じている。イタ・ヴェークマンがあるとき「古代秘儀の知識は医療に役立た
        ないのでしょうか」と問いを発したために、人智学的医学が展開することになった。
        (佐藤公俊 訳者解題ーー労働者講義の紹介より。
         ユリイカ2000年5月号特集「ルドルフ・シュタイナー」青土社所収 P90-91)
 
シュタイナーは「問い」を発することを重要視した。
「問い」のないところからは何も始まらない。
労働者たちは「しかし、ヘル・ドクトル」と
何度も積極的に「問い」を投げかけていたようである。
そしてそのことをシュタイナーは非常に好ましく思っていたらしい。
 
この労働者講義の聴講が許されたのは、
マリー・シュタイナーやイタ・ヴェークマンなどのように
いわばシュタイナーに「問い」を発していた人たちだったのだろうと推察される。
(なぜかそういう「問い」を発した人たちこそがシュタイナーの死後、
人智学協会から放逐されたという話もある。組織の問題だったのだろうか。)
逆にいえば、「問い」を発さない人たちは聴講が許されなかった。
「問い」を発さない人というのは教えてもらうのをただ待っている人である。
 
シュタイナーへの「問い」によって、
教育も、医学も、農業も、キリスト者共同体も展開することができた。
おそらく「問い」がなければなにも始まらなかったのだろう。
シュタイナーの前では、問いを発さないことで失敗したパルチファルになってはならなかった。
だから、シュタイナーには「なぜ問わないのか」と「烈火のごとく怒る場面」がある。
しかもシュタイナーにはその死まで、残された時間はわずかしかなかった。
シュタイナーの憤りが伝わってくるような気がする。
 
『教育の基礎としての一般人間学』の最後の講義(第14講)に、「杓子定規な態度」に対して、
教師が杓子定規な態度をとるときに、「人生のどんな場合よりもひどい不幸」が生じてしまう、
「杓子定規になりはじめたら、それが子どもを不幸に陥れ、自分を悪徳にふけらせると思え」
というふうにかなり強く批判するところがあるが、それはどこか
「なぜ問わないのか」と「烈火のごとく怒る場面」と似ているところがある。
 
シュタイナーは、その『一般人間学』の講義の最初でも、
「私たちは今日の時代に行なわれているすべてに対して、
生き生きとした興味を持てなければなりません」と語っているが、
生きた関心をさまざまなことに持ちながら「しかし、ヘル・ドクトル」と問うこと。
そのことなしの精神科学はありえないことのように思う。
答えは得られないかもしれないけれど、問うことなしではなにも始まらないのだから。
 
そして、シュタイナーの精神科学は「問い」を発する者すべてに開かれているのだといえる。
逆に、「問い」を発することのない者にはその門は開かれない。
門を開ける呪文こそが「問うこと」なのである。
「求めよ、さらば与えられん」。
 
「しかし、ヘル・ドクトル」という疑問を自分のなかに禁じている何かがないだろうか。
たとえば、決まり事なのだからそれはそうあるべきだというような杓子定規の感覚。
さまざまなことに関心を持てない認識の怠惰ゆえの沈黙。
もしみずからのなかに「問い」を疎外する何かがあるのだとしたら、
まずそれに対してこそ「問い」を向ける必要があるのだろう。
そしてそこにもまた「自由の哲学」という基本があるように思われるのだ。
 

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