シュタイナーノート 90

より深く降りるということ


2003.9.1

         単に人間になるだけのことなら、永遠に繰り返されることかもしれません。
        私たちは土星紀における人格霊や、太陽紀における大天使や、火星紀におけ
        る天使と同じ存在でしかないでしょう。しかしそうだとすれば、高次の神々
        にとっては、特定の段階に立つ被造物がまたひとつ増えただけであり、何ら
        特別なことが達成されたわけではありません。しかし、私たち人間は、まさ
        に地球紀に人間となったことによって、天使にも、大天使にも、人格霊にも
        できなかった何かをすることのできる存在になったのです。宇宙の創造行為
        が、大天使と天使のあとに人間を生み出したことによって、何が達成された
        のでしょうか。それによって、どんな進化が成し遂げられたのでしょうか。
         人間は、より深く降りてきたことによって、おそらくより高く昇っていく
        権利を得たのではないでしょうか。私たちは今、この問いを、いわば最後の
        問いとして提出しようと思います。
        (『シュタイナー霊的宇宙論 第9講 人間とは何者なのか』春秋社/P182)
 
人間であるということは
いったいどういうことなのだろうか。
いったいどんな可能性に向かって開かれているのだろうか。
 
その問いをみずからに問いかけ続けるために神秘学は欠かせない。
少なくとも、昨今のDNAに還元されてしまうような人間観からは、
どんな希望も見出すことはできないようにぼくには思われる。
子孫などによって遺伝子の継承を図ろうとしたり、
クローンなどつくってみたりしたところで、
私が私であることの謎も、私が人間であるということにおける可能性も、
見出すことができようはずもないのは、
少し考えてみただけでわかりそうなものなのに、
それにあえて目隠しをしているのが現代の悲喜劇なのだろう。
 
神秘学的な意味において、今人間であるということを問うためには、
『神秘学概論』の「宇宙の進化と人間」の章をふまえる必要があるが、
上記の引用も含まれている、『シュタイナー霊的宇宙論』、
原題が『霊界にヒエラルキアと物質界におけるその反映』というこの講義は
その問いをさらに深めていくための素晴らしいガイドになる。
 
土星紀において、人格霊は人間であり、
太陽紀において、大天使は人間であり、
月紀において、天使は人間であり、
そうしてこの地球紀において、私たち人間は人間である。
しかし同じく人間の段階にあるといってもその意味は同じであるとはいえない。
 
人間は自由の霊であるともいわれるように、
悪の可能性のなかをも生きながら、
自分の力で自由に進化し得る存在であり、
おそらくはそのためにこそこうした
きわめて不自由な物質的世界のなかに降ってきた。
これまでに人間であったことのある存在のなかでも、
ここまで降ってきた存在はなかったのである。
しかもある意味でほとんど目隠し状態に近い。
 
一方で、非常に高度なことを学んでいく進化プロセスがあったとして、
そこで非常に高度なことが効率よく達成し得るとする。
また一方で、何を学んでいけばいいかわからない状態のなかで
ほんのわずかなことだけをかろうじて学べるだけだけれど、
それは自分の力で学んだことにほかならないとする。
おそらく現在の人間は後者なのだろう。
そこに非常な愚かさをいきざるをえない現状があり、
同時ににそこにこそ自由があるのだともいえる。
 
みずからの愚かさを誇るわけにはいかないし、
その愚かさのことをちゃんと知る必要もあるのだけれど、
そういう状態でしか得られないもののことを
少なくとも誇り高く思ってもいいのではないだろうか。
つまり、「より深く降りてきたことによって、
おそらくより高く昇っていく権利を得た」ということ。
しかし、「権利を得」ることとそれを行使することとは
別のことであることは知らなければならないだろう。
 
どちらにせよ、私たちはとても深く降りてきて、
こうして地上をはい回りながら生きている。
きわめて制約の多い自由のなかを…。
 
 

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