私達があらゆる努力をする…全精神力、精神力全体を傾注して、まず 自己を極限にまで使い尽くして高めきった後に、私達は今一度これまで の過程で獲得してきた事柄すべてを捨て去ることができなければならな いのであります。 私達自身の内部において思考が活性化され、瞑想の域にまで高められ て最も高次に結実して初めて、私達は利己的でなくなることができるの であり、獲得したものを今一度捨てることができるようになるのであり ます。これは最初は何もなく、高められていない状態とは全く違った次 元なのであります。このように自己を強化するためにまず全力を尽し、 それから意識が無となるようそれを今一度無化する努力を致したならば、 精神的な世界が人間の意識の中で沸々とたぎってくるのであり、かくし て精神的な世界が人間存在の中へ入ってくるのであります。つまり、精 神的な世界の認識のためには精神的な認識能力が不可欠であることがわ かるのであります。 (シュタイナー『現代の教育はどうあるべきか』人智学出版社/P27-28) バッテリーを長持ちさせるためには、その都度使い切ることが必要だという。 そしてそのからっぽになったところに充電する。 それとも、こういうたとえ方のほうがいいだろうか。 コップにたっぷり注ぐためには、コップの中がからっぽでなければならない。 しかし、このコップは、それまで注がれていた量の大きさになることができる そんなちょっと特別なコップなのだ。 つまり、まったくなにも注がれていないコップにはなにも注ぐことができない。 コップの容量を増やすためには、さいしょに、その中身を獲得していく必要がある。 その獲得したものに応じてそのコップはからっぽである可能性を得る。 仏教において煩悩即菩提といわれるが、それは 煩悩が大きいにもかかわらずその煩悩を克服することができたとき その菩提は、その克服された煩悩に応じた大きさを獲得することができる。 そういう意味でもあるのかもしれない。 善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや、というのも ちいさな煩悩を容易に捨てる善人でさえ往生するのだから 悪をも自覚的に克服することのできた悪人が 往生しないことがあろうか、という意味でもあるように思える。 シュタイナーは、思考を重視し、 「精神的な認識能力」を「不可欠」だといいながら、 ときにselbstlosigkeit(無私)を強調するのも、 そうした文脈でとらえることもできる。 認識することを断念するということの重要性をいうのも、 認識しないでいい、思考しないでいいということではなく、 かぎりなく認識を求めることによってはじめて可能になることなのだ。 捨てるためには、捨てることのできるものをたくさん持たねばならない。 その逆説のために、私たちはこの地上を生きているのかもしれない。 |