瞑想によって世界との正しい関係を獲得するために、私はたえず自分に こう言い聞かせた、ほら、そこに謎に満ちた世界があるではないか、認識 がこの謎めいた世界へ近づくことを望んでいるではないか、と。世界はい つも一つの謎の解答として一つの思想を用意する。しかしあまたの謎はー ー私が自分に言い聞かせねばならなかったようにーー思想によっては解決 できない。思想は解決へ向けて人を導きはするが、解決そのものを含んで いるわけではない。謎は現実の世界に発生し、現実の世界に現象として存 在する。それ故に、その解決も現実の中にある。謎は存在や現象として現 実中に姿を現わし、それがもう一つの謎の解答となる。 私はまた次のようにも考えた。人間を除いて世界全体が一つの謎であり、 これこそが真の世界の謎なのだ、そして人間自身がその解答である、と。 この認識を更に突き詰めて、私は次のようにも考えた。人間はあらゆる 瞬間に世界の謎に関して何らかの解答を提出することができる。しかし人 間は人間である自己自身について認識している限りでしか答えることがで きない。 こうして認識も現実の一つの出来事となる。疑問が世界に現れる。する とそれに対応する答えが現実として現れる。人間における認識とは、した がって、霊的世界と物質的世界の存在や出来事が人間に伝える事柄に積極 的に関与することである。 (シュタイナー『シュタイナー自伝II』ぱる出版 P100-101) 「自伝」のこの箇所は、第22章。 ワイマール時代が終わる頃、 シュタイナーが36歳のときの「心の転機」に際して、 「世界と人間との関係」について記されているものである。 世界は謎である。 謎であるということは、 人間が問いかけることではじめてその謎が表れてくるということだ。 つまり、問うことなくして世界は展開されていかない。 世界はただのカオスのままである。 まず問いをもつことが必要なのだが、 機関銃を乱射するように問うことは意味がない。 正しく問いを持つ必要がある。 正しくということは、ある意味で「中道」的であるということでもある。 これについては多く八正道がそのあり方を示唆してくれる。 正しく問うことができれば、 それに応じた答えがでてくる可能性を得ることができるのだが、 その答えは、 「自己自身について認識している限りでしか答えることができない」。 だから、ある人にとっての「問いと答え」は、 別な人にとっての「問いと答え」になり得るとは限らない。 世界に謎がある。 そしてその世界のなかに解答もある。 人間は世界の謎を問う。 そして世界のなかに解答を見出す。 その解答は自己認識という「窓」に応じたものであり、 それが人間にとっての現実となる。 「汝自身を知れ」 その「汝自身」の認識そのものが まずは現実そのものとなって世界を展開させてゆく。 正しく自ら問いを持つことなくして答えはなく、 答えはみずからの窓を通じてしか創造されていかない。 その人を正しく見るならば、その世界の謎が見える。 その謎の答えが見える。 そういうこともできるのかもしれない。 |