シュタイナーノート105

季節を体験すること


2005.4.11.

	 四季の体験は、霊的な体験とまったく生まなましい形で結びついて いましたが、
	この体験が地上の人類の発展を通して変化してしまいました。現代の 人は、もはや
	四季を霊的に体験できません。なぜでしょうか。ひとつの単純な考察 がその理由を
	教えてくれます。
	 古代の人びとは星々に従って地上の出来事も判断しましたが、人間 はそのような
	依存状態から抜け出たのです。考えてみて下さい。私たちがヨハネの 季節にいて、
	地球の魂が星々と結びつく経過を辿ることができたとします。そうし たら地球の反
	対側に住んでいる人たちは、その時クリスマスの季節を迎えているの ですから、地
	球の魂は、地球の反対側では地球の中に戻っていることになります。 このことをど
	う理解したらいいのでしょうか。
	 古代の霊的な時代の人びとは地球の反対側の人びとのことなど知ら ずにいました。
	地球を円盤のように考えていたのですから、地球が球体をなし、反対 側にも人が住
	んでいるとは思わずにすんだのです。
	 実際、人類は意識を進化させてきました。そして地球に対する関係 全体も、人び
	とが地球を球状と見なすようになったことで、すっかり変わってしま ったのです。
	そして今、この北ヨーロッパの地で、地球の魂が星々のところへ出て いくとき、霊
	視者の眼で見ると、その一方でその地球の魂は、彗星のように尾を延 ばして地球の
	中に戻っているのです。そしてそれが南半球でのクリスマスなので す。そして逆に、
	この地方で地球の魂が地球に戻ってくるとき、南半球では魂の一方が 宇宙の彼方へ
	延びているのです。このことが同時に生じているのです。
	 地球を円球状に考えるようになったとき、それと同時に人びとは、 四季の推移か
	ら独立するようになりました。自分の地域だけで生活している人びと にとっての四
	季は、絶対的なものでした。平気で世界中を旅行できるようになった 現在、別の地
	方へ行くごとに、別の四季を体験しています。ですからかつてのよう に、四季の祭
	りに深く内的に関わるきっかけがつかめなくなりました。
	・・・
	本来なら私たちは、空腹やのどのかわきを感じるときのように、直接 地球の魂の呼
	吸を体験できたはずなのですが、実際はその反対なのです。人間は個 人として自我
	存在という自由な存在になっただけでなく、地球そのものも、宇宙空 間から解き放
	たれて、独自の存在になったのです。地球そのものが宇宙空間と密接 な関係を持た
	なくなったのです。少なくとも人間にとって、古代におけるような関 係は失われて
	しまったのです。
	・・・
	 人間の魂は、春になると、宇宙へ赴こうとする地球の魂について行 こうとします。
	しかしそうすることができません。人間の魂は、自由の感情と自我感 情を発達させ
	たので、天上の高みでは気を失ってしまうのです。しかし秋になる と、ミカエルが
	降りてきて、キリストの代理として人間に協力してくれるのです。そ のことを、人
	間の魂は、感じとるのです。
	 葉が褐色に枯れて、落葉になり、自然が死へ向かっていく秋の自然 に、ミカエル
	が、現在の人間の魂ではもはや手のとどかない天上の高みから降りて きて、キリス
	トの代行者となり、秋の気分を通して、人間に協力してくれるのです。
	 ですから私たちは自分の意志から、霊的意識から、この季節のため の祭りを祝い
	たいと思うのです。
	(シュタイナー『四季とその祭り』1923.5.22.オスロ
	 『魂のこよみ』ちくま文庫所収/P138-149)
 
季節を体験するということは、
地球の魂の呼吸を体験するということ。
しかしそれを体験するということは、
ますますむずかしくなってきている。
 
上記に挙げられている例のように、
地球の裏側ではまったく逆の季節であり、
飛行機でひとっとびすれば、まったく逆の季節を体験できてしまう。
そんな時代における、季節の体験をどう受け止めればいいのか。
少なくとも古代における、地球の魂の呼吸と一体となったようなあり方は
現実的にいっても不可能になってきている。
 
そして、人間が外的な季節の変化から自由になってきているように、
地球も宇宙空間から解き放たれて独自の存在になってきているという。
そんな時代に、季節は、そして季節の変化に伴った祭りは、
人間にとってどんな意味をもっているのだろうか。
 
シュタイナーは、「人間は自分を外から観察するのではなく、
内から、魂的=霊的なものから認識できなければならない」という。
つまり、季節への感受性を内的に
「魂的=霊的なものから認識」するよう方向づける必要があるということである。
 
今年はすでに3/27にあった「復活祭」の意味も
そこからとらえていく必要がある。
上記引用の講演のなかにも、復活祭を天上の時間ではなく
地上の時間に合わせて決めようという考え方がいかに唯物論的かを述べている。
唯物論的な考え方で復活祭を決めようとすると、
毎年復活祭を四月の第一日曜日に決めようとかいうことになる。
 
実際、日本でのさまざまな催事は、
すでにそうしたきわめて唯物論的な観点から決められている。
そのほうが「合理的」だというわけである。
たしかに、「休日」は「計画的」にあったほうが「便利」なのだ。
しかし何かへの感受性を内的に「魂的=霊的なものから認識」するよう
方向づけることとは反対のものがそこでは働いている。
 
個人的にいえば、むしろ最近になって、というか、
シュタイナーを読むようになってようやくというか、
「季節」への「感受性」がようやく芽生えてきたような感がある。
 
その意味で、シュタイナーの「魂のこよみ」は、
とても重要なものを示唆してくれるといえる。
 
 

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る