シュタイナーノート106

外界と内界の限界


2005.5.8.

	 外へ眼を向けるとき、外の世界には、まず感覚の対象が現れます。私たちは
	色や光を見、音を聴き、暑さ寒さ、匂い、味その他を感じます。さしあたりこ
	れが、人間を取り巻く世界なのですが、この環境世界には、一種の限界が設け
	られているので、直接的な知覚体験を通しては、この世界、眼の前に拡がるこ
	の色と光、音と匂いなどの世界の背後を窺い知ることができないのです。
	・・・
	 境界はもう一つあります。その境界は、私たちが自分の内部に眼を向けると
	きに現れます。私たちの内部には、快と不快、喜びと悲しみ、情熱、衝動、欲
	望などの世界が、言い換えれば、魂の営みのすべてがあります。この魂の営み
	は、「私は嬉しい」とか、「悲しい」とか、「こうしたい」とかいう言葉で表
	現されていますが、この魂の営みも、ちょうど外にある霊界を感覚的知覚が覆
	い隠しているように、その背後にあるものを覆い隠しているのです。誰にも明
	らかなように、快と苦、喜びと悲しみ、その他すべての魂の体験は、朝の目覚
	めに際して、未知のところから立ち現れてきます。そして私たちはすぐそれら
	の体験の只中にいます。
	(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第一講より
	 『シュタイナーコレクション3/照応する宇宙』筑摩書房/P14-16)
 
仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意の六入(六根)という器官、
そしてその対象である色・声・香・味・触・法という六境(六外処)、
その両者の六入と六境をあわせて十二処とし、
さらにそこから生じる認識である眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を加え
十八界というのが、いわゆる私たちが世界をとらえるすべてだという説明がされる。
これが、通常私たちが外界としてとらえることのできるすべてなのである。
 
さらに、私たちの内部における快と不快、喜びと悲しみ、情熱、衝動、欲望な どの魂の営みを
仏教は「苦」としてとらえ、その苦の起源には主に次の4つあるといわれる。
欲望、無知、四苦八苦(生老病死という四苦に、
愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦)、そして無常。
 
ゆえに、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦、
正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道、
そして中道が説かれるのだが、
要するに、外界においても十八界となかに閉じこめられ、
内界においても苦の只中に放り込まれていて、
そのままではどうしようもないので、修行しなさい、
修行したら悟れる?というわけなのだけれど、
それはそれとしてもこの発想はちょっとばかり悲しい感じがしないでもない。
 
しかし、シュタイナーの上の引用にもあるように、
たしかに私たちは、外界においても内界においても、
一定の場所に閉じこめられているということは否定できない。
そして通常は、世界はその閉じこめられているなかに否応なくいるわけであり、
それを脱するためには、死ぬくらいしかないわけである。
 
シュタイナーのこの『マクロコスモスとミクロコスモス』という講義では、
なぜわたしたちがそのようであるのか、
またその境界を越えたところにあるものについて比較的詳しく説明されていて、
欲望、無知、四苦八苦、そして無常という心理状態になったりしたときなど、
たいへん有効な魂の処方箋にもなっていたりする。
実際にその外界、内界から自由になれるわけではないのだけれど、
なぜそのようであり、その幽閉されている外はどうなっているのかについて
ある種の開けとでもいえるような感覚をもつことが可能になる。
視点の転換が可能になるわけである。
 
その視点の転換の重要性は、とくに、
今ここにいることに閉塞感を持ち、
しかもきわめて「苦」の感覚が強い場合、有効になる。
 
そして、自分が今感じている
「私は嬉しい」、「悲しい」、「こうしたい」という
その根源にあるものについて視点をもち、
それにふりまわされにくくすることもまた可能になるのではないか。
それもまた、「中道」のひとつなのだろう。
 
 

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