シュタイナーノート107

思考というまわり道を通ること


2005.5.9.

	『神秘学概論』のような書物を、他の書物と同じように読むことはで きません。
	この本は、他の書物と同じような仕方では書かれていません。この本 の中に述べ
	られている諸概念、諸理念は、感情を解放することができるように、 感情によっ
	てこれらが十分強く実感できるように、そのために用いられているの です。この
	本は、魂の中で深く実感するように読むことができます。そうするこ とができれ
	ば、その感情体験は、あの北ヨーロッパの秘儀の中で体験されたもの に似てくる
	のです。
	・・・
	 霊学を理論的に述べるだけでしたら、意味がありません。それでし たら、料理
	の仕方を述べるように霊的な事象を述べるのと変わりありません。別 の事柄が述
	べられているから違うのではなく、事柄を叙述する仕方そのものの中 に、違いが
	あるのです。
	 このことから、私たちの霊学運動にどんな意味があるのかが見えて きます。思
	考という廻り道を通って、ふたたび感情を高揚させる、というのが、 私たちの時
	代の課題なのです。私たちはその課題に応えることで、時代の混乱か ら私たちを
	ふたたび抜け出させることのできる何かを見出そうとしているのです。
	(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第三講より
	 『シュタイナーコレクション3/照応する宇宙』筑摩書房/P76-78)
 
なぜシュタイナーは哲学者だったのか。
神秘家や宗教家などではないかったのか。
『神秘学概論』がどのように書かれているのかについて
上記のように述べられていることから
それに対する答えのひとつを得ることができるだろう。
『自由の哲学』という哲学書が書かれていることからもそれがわかる。
 
とはいえ、それは『神秘学概論』がそうであるように、
通常の意味での哲学書とはいえないだろう。
それは、蠅に蠅取り壺から出る方法を教える(ヴィトゲンシュタイン)だけではなく、
それを読むことで思考を通じて秘儀的なありかたで
魂を附活させることができるからなのだ。
いわば、魂振りである。
 
しかしそれは古代的な仕方での魂振りではありえない。
思考というまわり道をしっかり辿るというプロセスがそこにはあるからだ。
単なる感情や意志や肉体的な行によって魂振りするのではないのである。
『自由の哲学』において、感情神秘主義や意志形而上学が退けられ、
思考による一元論が提唱されているのもそのことによる。
「時代の混乱から私たちをふたたび抜け出させることのできる何かを見出」す ためには、
思考というまわり道が不可欠なのである。
もちろんそれで終わってはそれはそれだけであり、
その思考内容を通じて魂振りが行われなければならない。
従って、そこに短絡的でファナティックなあり方はありえないだろうし、
常に現代における諸認識が踏まえられることになるはずである。
 
「時代の混乱」とは、まず最初に思考の混乱でもある。
というよりも、現代においては思考というまわり道を避けることによる混乱であろう。
その例を私たちは日々つぶさに観察することができる。
そしてそのことを通じても、そこから「抜け出す」ためには
なにが必要なのかという示唆をも得ることができるのではないだろうか。
 

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