真の自己認識は、今の自分を知ることだけでなく、今の自分に働きか けることなのです。 (シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第四講より 『シュタイナーコレクション3/照応する宇宙』筑摩書房/P105) 人間は自由であるのか自由でないのかという問いは適切ではない。 自由であろうとするのかそうでないのかという問いのほうが適切である。 自由は創造されるものであって、与えられるものではないからだ。 同様に、自己認識は何かをスタティックに観察するように自分を知ることではない。 ある意味で、自己認識は自己創造でもあり、また自己変革でもある。 誤解されがちなことばに、「あるがまま」というのもある。 それを「自分は自分のままでいいのだ」とか「そのままでOK]ととらえると、 創造および変革の要素を認めないときに、むしろその反対の意味になってしまう。 今ある自分を後ろ向きに否定することはやはり避けた方がいいが、 動きを止めることもまた、それと似た事態を招いてしまうことになるだろう。 今ある自分は、やはり前向きに肯定即否定するのがいい。 肯定即否定というのは、矛盾しているともいえようが、 自らを肯定するということは変わらないということでもあり、 自らを否定するということは変化を前提としていることでもある。 また、自らを肯定するということは自分を信じているということでもあり、 自らを否定するということは自分を信頼しないということでもある。 それらすべてを含みこんだ同一性即非同一性としての矛盾を 人間はつねに有しているということなのだ。 今ある自分は常に矛盾をはらんでいる。 存在するということそのものを矛盾の動的現象としてとらえてみよう。 たとえば、即自と対自のあいだにもズレがある。 そのズレは、悲しみでもあるかもしれないが、同時に希望でもあって、 そのズレゆえにこそ、変化が可能になるということもできる。 つまり、自分に働きかけることができるということである。 それをある意味で「自我」ということもできるだろう。 自我ゆえに、自己認識が可能となるわけである。 もちろん、その自我は、みずからを破壊することをも可能な 自由をもっている危険なものである。 自己認識ということは、そういう意味で、ヤヌスの顔を 自らがのぞき込むというちょっとした恐怖にさらされることでもある。 「こんな顔かい?」と自分が自分に振り向く。 その顔は、いったいどんな顔なのだろう。 こわいもの見たさもあるが、決して見たくない気もする。 |