シュタイナーノート110

方言


2005.6.2..

	 子どもたちの大部分が言語・方言を学校にたずさえてくるのは事実です。
	子どもたちは方言を話します。方言は模倣本能の影響下に、子どもたちの
	なかで出来上がっていきました。ものごとを観察する才能があれば、方言
	を話す子どもは、方言を話さない子どもよりも、ずっと内密な関係を言語
	に対して有していることが分かるでしょう。私たちは学校で方言の要素を、
	いわゆる書き言葉の学習に役立てることができます。・・・
	 方言を話す子どもは、言語に対して内密な関係を有しています。単語・
	文章が形成されるとき、方言はいわゆる標準語よりもずっと集中的に感じ
	られ、意志されるということを、私たちは見落としてはなりません。
	 標準語は表象、あるいは、おもに表象に受け取られた感情に基づきます。
	子どもが初めから標準語を話すとしましょう。標準語のなかには心情のい
	となみが、方言に含まれるよりもわずかしかありません。意志衝動も同様
	です。
	・・・
	 歩き方を学ぶように方言を学んだ子どもは、自分のなかに方言を担って
	います。そうすると、私たちは自分が教えようとするものを、子どもから
	取り出すことができます。方言は書き言葉とはちがって、芸術的なもので
	す。書き言葉は悟性的であり、因習的なものです。方言を話すという幸運
	を持たなかった子どもにも、周囲で話されている方言を示唆して、方言を
	学ばせるのは有益です。
	 そうすることをとおして、私たちは教育において利用しなくてはならな
	いものを利用します。「子どもが方言を習得することによって、すでに子
	どもの血液のなかに存在する芸術的要素を私たちは利用する」のです。こ
	れが。私たちが方言と書き言葉について語るときに、最初に考察すること
	がらです。
	(シュタイナー「方言と書き言葉」
	 『精神科学による教育の改新』アルテ所収/P85-103)
 
シュタイナーが、方言の重要性について示唆している面白い講義である。
 
「歩き方を学ぶように方言を学」ぶことのできた子どもは、
言語に対する「内密な関係」を有することができるという。
 
いしいひさいちの四コマ漫画だったと思うが、
就職試験の面接のシーンで、
最初、エリートらしき学生が「○カ国語が話せます」ということに対して
面接官たちが「ほう」と感心するシーンに続き、
今度は、あまりぱっとしないように見える学生が
「○カ国語の方言が自由に話せます」ということに対して、
面接官たちが、さらに感心する、というストーリーがある。
 
方言の力はすごい。
日本でいちばん力をもっている方言はおそらく関西弁である。
いまでは全国津々浦々まで広がっているテレビ等の影響もあって
身近な言語環境だけの影響で育つことはまれで、
そのため、それぞれの地方特有な方言を
純粋に保っていることはまれになってきているだろうが、
それにしても、言語に対する「内密な関係」を有している方言を
ずっと持ち続けている人のある種の力は特別なものがあるように見える。
そして関西弁はこれだけ全国の人たちに認知され、
特有なポジションをもっている方言である。
吉本新喜劇の関西弁もその力のひとつである。
 
ところで、東京などにでかけたときにこんな風景を見かけたことがある。
トイレにお父さんと小さな子どもが入ってきた。
そして、お父さんが子どもに用を足させようとして、
「ちゃんとしなきゃだめじゃないか」
「だってむずかしいんだもん」
というような会話が交わされていたのだが、
なんだかあまりにとってつけたようなそらぞらしい響きを感じてしまった。
テレビドラマのような会話を話すんじゃない!という感じ。
とはいっても、彼らにとってはそれが日常会話なのだろうし、
それそのものが不自然というのではもちろんない。
けれどそういう言葉を一枚岩で話すしかない人というのはどこか言語的に寒いのだ。
 
方言を話す人で標準語も話せるという人は
2カ国語を話す人に近いといえるのかもしれない。
しかし標準語に近い言葉の一枚岩というのは、
どこかでなにか力を持ち得ないところが多いといえるのかもしれない。
その在り方というのは、思考の在り方にもどこか影響を与えるようにも見える。
 
	人間が思考から言語を形成したのではなく、言語から思考を学んだ
	ということを、方言は教えます。言語は人間の無意識から現れ出た
	ものです。人間が言語を観察することによって、言語から思考が現
	れます。(P91)
 
その思考の現れる言語に対する「内密な関係」が
しっかり築けているかどうか。
その意味でも方言を自然に身につけることができているというのは幸運なこと 
なのだろう。
そうでない場合は、むしろ方言を学ぶことが重要になるといえる。
 
この観点はまず子どものときの、
方言から書き言葉への確かな方向性を確立するという在り方に関してだけではなく、
私たちが、言語から思考を形成していく際に、
方言を学ぶことを通じて思考の豊かさを身につけることができるということでもある。
 
言語から思考を学ぶということは、その言語そのもののありようによって
そこで学ばれるものもまた異なってくるということもいえるのかもしれないのだ。
たしかに、標準語のような表現からは、
たとえばあの関西弁の「なんぼのもんじゃい!」的な言葉からでてくるものは
出てくることはできないのかもしれないのだ。
そうした、方言をその言葉への内密な関係づけを通して身につけることで
ある種の思考が可能になるということもあるのかもしれない。
 
河合隼雄さんや、森毅さんの顔が今浮かんだのだけれど、
そうした個性的な人の思想形成なども
その方言と密接に関わっているところもあるのかもしれないとふと思った。
 
 

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