シュタイナーノート112

変容できるということ


2005.9.13.

 

 
	変容できるという感情は、謙虚であろうとする感情でもあります。最 も深い宗教的な
	謙虚さの感情は、変容できるという感情と結びついているのです。
	しかしここで、問いを立てることができるのです。私たちの変容能力 は内部から呼び
	起こされます。ではその能力は、常に私たちの内部にあるのでしょうか。
	そうです。…「他のものの中へ変容する」能力は、常に私たちの内部 に存在していま
	す。ただ、それを意識して働かせるためには、上に述べた仕方で進歩 しなければなり
	ません。どんなときでも、私たちは、私たちであるだけではなく、他 の存在でもある
	のですが、自分の意識を他の人の意識にまで高めるのでなければ、こ の能力を意識し
	て働かせることはできません。なぜでしょうか。人間が通常の地上世 界で自分を他の
	存在に変容させる場合を考察すると、その理由がよく理解できます。
	通常の地上世界では、変容能力が別のことに用いられるのです。それ が何の力なのか
	を知らずに、たとえば、他のひとたちを支配するのに不正な仕方で自 分の意志を行使
	するようなとき、またはそもそも他の人に不正な仕方で、この能力を 誰かに行使する
	のです。嘘は他の人の中で生き続けますから、そうすることで私たち は、一定の権力
	を手に入れるのです。
	悪いことをするとは、常にそのようなことなのです。この世で何か悪 事を働くときの
	力は、この変容能力なのです。ただ、その力が不正な仕方で行使され るのです。この
	世のすべての悪は、この変容能力の不正な適用なのです。この世の不 正、悪、犯罪、
	災禍がどこから来るのかを深く洞察するとき、生きることの秘密が分 かってきます。
	悪事は、存在する最上かつ至聖の力が、すなわち変容能力が、間違っ た仕方で適用さ
	れることによって生じるのです。
	至聖なる力が存在しないなら、この世に悪は存在しません。
	(シュタイナー『オカルト的な読み方と書き方』
	 シュタイナーコレクション2(平凡社)所収/P219-220)
 
哲学で「他者論」が論じられることが多くなっているように見える。
しかしそれは多くの場合、とても歯切れが悪い、というか
極論をいえば、何を語っているのか、語ろうとしているのか
まるでわからないことにさえなってしまう。
 
ときには、「他者」そのものをどうとらえるのかが
その存立もふくめてとらえがたくなってしまう場合もあるし、
逆にどこからか不気味な「他者」が立ち現れてくる場合もあるし、
どうすることもできない「他者」との関係性があれこれ
迷宮のように論じられる場合もある。
 
たしかに「他者」というのは、きわめて困難なテーマである。
しかし、この引用にもあるように、
「他者論」を「他のものの中へ変容する」能力として
とらえるというのは、大きな可能性ではないかと思う。
 
私は私なのだけれど、
その私は他へと変容することもできる、ということ。
 
しかし、そのためには、
「自分の意識を他の人の意識にまで高める」ことが必要になる。
たんに、自分をなくして他者になるというわけではないのである。
従って、自分の意識が高まらないかぎり他者への道は開かれない。
自分の意識を高めなければ、他者のことはわからない。
 
つまり、「人の身になって」というのは
多くの場合、単なる思いこみにすぎないし、
「人の身になって考えなさい」ということは、
「あなたはその他者以上の意識を持ちなさい」ということになり、
もし自分が「人の身になって」いるといえるためには、
自分はその他者以上に意識が高いと自分で認めていることになる。
 
それを少しでも意識するようになると、
人に働きかけるということはいったいどういうことだろう。
人とともに生きるということはいったいどういうことだろう。
そういうことを考え直さざるを得ない。
 
ここで重要な点は、
その「他のものの中へ変容する」能力である「至聖なる力」は、
悪の存在の可能性と深く関わっているということである。
 
悪の可能性がないならば、
私たちは他者と生きることがおそらくはできないのだろう。
謙虚であろうとすることもできないのだろう。
悪ともなりえる力を使って
私たちは、自分が他者ともなりえる
変容能力を働かせなければならない、
 
だから、悪の可能性を排除したもののなかには
聖なるものは存在することができない。
悪人が正機する、悪を自覚することによってはじめて
他者を「支配」したり、
「不正、悪、犯罪、災禍」を招いたりする可能性のなかで、
あえてそれを選ばず、
「他者」とともに生きることも可能となるのだろう。
 
その自覚がないときに、
人は無意識の偽善も含めて、
他者を「支配」しようとしたり、
「不正、悪、犯罪、災禍」の種を
それと知らずに蒔いてしまうことにもなる。
 
 

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