シュタイナーノート114

学び続けられる魂へ


2005.9.14.

 

 
   今日の生活を取り上げてみましょう。人間は、ある年齢まで学びます。ある
  年齢まで、これを学び、べつの年齢まで、あれを学びます。それからは、もう
  学ぼうとせずに、生活に追われる時期がやってきます。学問を職業とする人も、
  もはや好んで学ぼうとはしません。もっと学ぼうとする人は、今日では稀です。
  一般には、ある年齢まで学び、それからは、自由時間をカード遊びや無用なこ
  とをして過ごします。
   (…)
   唯物論的な文化には、人間が老年まで保てる心情のいとなみを形成する力が
  ありません。
   精神科学は、人間は外的には年老いても、内面・心魂は若いままでいられる、
  ということを証明しようとします。五〇歳になると、自分の行なうことが最も
  重要であり、その他のものは没落するという幻想には没頭できませんが、自分
  が行なうべきものに全力を注げるくらい若くあることはできます。自分の行な
  うことを、青年のように、子どものように実感できます。子どもが遊びに熱中
  するように、人間は自分に課せられたものに全力を集中します。
   精神科学は単なる理論ではなく、若返りの魔法の飲み物になるにちがいあり
  ません。
  (シュタイナー「建物の意味」
   『シュタイナーの美しい生活』西川隆範訳/風濤社 所収/P60-63)
 
「生涯学習」が語られるようになって久しいが、
その内実はというと決して豊かであるとはいえない。
カルチャーサークル的なノリはあるものの
ほとんどの場合、余暇の慰みでしかないからである。
そこには「精神科学」が欠落している。
 
まず前提には、子どもであれ大人であれ老年になった大人であれ、
みずからの魂には肉体的な年齢とは別の成長があり
それは生と死を超えているということがある。
それが否定されたときに、すべては肉体年齢に左右されることになる。
 
若い頃は、「将来の自分」をつくるため、
多くは経済的に豊かになるため、云々のために、
そのための「学び」がある程度否応なく必要とされるが、
人は次第にその「将来」である自分になってきたときに、
その「目標」そのものを見失ってしまうことになり、
そもそもその「目標」そのものが非常に唯物論的であるため、
みずからの魂の養分を自分に与えるための「学び」のことが
まるでわからなくなっていく。
そして、時間がない人は忙しく、その漢字の通りに心を亡くし、
時間をもてあましている人は、気晴らしのために時を食いつぶす。
 
現代の可能性というのは、とくにこうして日本とかにいると、
たとえ「生活に追われ」て時間を持てないとしても、
多くの場合、なんらかの魂のための時間をとることは不可能ではない。
たとえば1日に1時間だけしか時間がとれないとしても、
それをつぶしてしまわない工夫は可能である。
1日に1時間だとすると、1年で365時間、10年では3650時間。
単純な時間の計算の問題ではもちろんないのだが、
「子どもが遊びに熱中するように」熱中するものを見いだせれば、
その1年の356時間がもたらしてくれるものは大変豊かであるに違いない。
 
ただ問題は、問題の根源は、
その「熱中するもの」を見いだし続けることができるかどうかである。
その意味で、精神科学はそのための無限の宝庫である。

 

 

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