今日の生活を取り上げてみましょう。人間は、ある年齢まで学びます。ある 年齢まで、これを学び、べつの年齢まで、あれを学びます。それからは、もう 学ぼうとせずに、生活に追われる時期がやってきます。学問を職業とする人も、 もはや好んで学ぼうとはしません。もっと学ぼうとする人は、今日では稀です。 一般には、ある年齢まで学び、それからは、自由時間をカード遊びや無用なこ とをして過ごします。 (…) 唯物論的な文化には、人間が老年まで保てる心情のいとなみを形成する力が ありません。 精神科学は、人間は外的には年老いても、内面・心魂は若いままでいられる、 ということを証明しようとします。五〇歳になると、自分の行なうことが最も 重要であり、その他のものは没落するという幻想には没頭できませんが、自分 が行なうべきものに全力を注げるくらい若くあることはできます。自分の行な うことを、青年のように、子どものように実感できます。子どもが遊びに熱中 するように、人間は自分に課せられたものに全力を集中します。 精神科学は単なる理論ではなく、若返りの魔法の飲み物になるにちがいあり ません。 (シュタイナー「建物の意味」 『シュタイナーの美しい生活』西川隆範訳/風濤社 所収/P60-63) 「生涯学習」が語られるようになって久しいが、 その内実はというと決して豊かであるとはいえない。 カルチャーサークル的なノリはあるものの ほとんどの場合、余暇の慰みでしかないからである。 そこには「精神科学」が欠落している。 まず前提には、子どもであれ大人であれ老年になった大人であれ、 みずからの魂には肉体的な年齢とは別の成長があり それは生と死を超えているということがある。 それが否定されたときに、すべては肉体年齢に左右されることになる。 若い頃は、「将来の自分」をつくるため、 多くは経済的に豊かになるため、云々のために、 そのための「学び」がある程度否応なく必要とされるが、 人は次第にその「将来」である自分になってきたときに、 その「目標」そのものを見失ってしまうことになり、 そもそもその「目標」そのものが非常に唯物論的であるため、 みずからの魂の養分を自分に与えるための「学び」のことが まるでわからなくなっていく。 そして、時間がない人は忙しく、その漢字の通りに心を亡くし、 時間をもてあましている人は、気晴らしのために時を食いつぶす。 現代の可能性というのは、とくにこうして日本とかにいると、 たとえ「生活に追われ」て時間を持てないとしても、 多くの場合、なんらかの魂のための時間をとることは不可能ではない。 たとえば1日に1時間だけしか時間がとれないとしても、 それをつぶしてしまわない工夫は可能である。 1日に1時間だとすると、1年で365時間、10年では3650時間。 単純な時間の計算の問題ではもちろんないのだが、 「子どもが遊びに熱中するように」熱中するものを見いだせれば、 その1年の356時間がもたらしてくれるものは大変豊かであるに違いない。 ただ問題は、問題の根源は、 その「熱中するもの」を見いだし続けることができるかどうかである。 その意味で、精神科学はそのための無限の宝庫である。
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