シュタイナーノート120

「キリスト」という名称への誤解


2006.1.10.

 キリスト教徒だけがキリストについて語ったのではありません。あらゆる
古代宗教の信奉者も、キリストについて語ったのです。人間が必要とするも
の、内的な経験によって到達可能なものが、人類進化の経過のなかに入って
きたのです。
 ある人が孤島で育った、としてみましょう。その人を教育した者たちは、
キリストと福音書に関して何も教えず、福音書とキリストの名前を用いる
ことなしに、世界の文化のなかに存在するものだけを物語りました。文化
のなかでキリストの影響下にあるものを、キリストの名を取り去って教え
ました。そうすると、どうなるでしょうか。
 そのように教育された人物のなかには、つぎのような気分が現れるにち
がいありません。「私のなかには、一般的な人間有機体組織に合致するも
のが生きている。最初、私はそれに到達できない。個我は有機組織から解
放された。有機組織のなかで個我を再び強くするために、人類文化をとお
しては到来できないものを、私は必要としている。神霊世界からの衝動を
必要としている。」
 そのような人が、人間が必要とするものを強く感じることができると、
「私の個我のなかに生きるものは、神霊世界から流れてくるにちがいない」
と、認識します。彼は、キリストとは何か、知りません。しかし、神霊世
界から来るものを自分の個我のなかで育成できる、と意識します。
 (…)
 それを彼がどのように名付けるかは、どうでもいいことです。人間がこ
のように感受すると、キリスト衝動に把捉されます。輪廻転生していく導
師から何かを習得できると語る者が、キリスト衝動に把捉されているので
はありません。神霊世界から直接、力の衝動、強さの衝動がやってくる、
と感じる者がキリスト衝動に把捉されているのです。人間はこのように、
内的に経験できます。その経験なしには、人間は生きられません。その経
験なしには、人間は未来に生きられません。
(シュタイナー『エーテル界へのキリストの出現』アルテ/P.111-112)

シュタイナーのキリスト観は、その霊ー学という名称以上に誤解されやすい。
霊ー学の霊を「精神」として拒否感がないようにするか、
あえて見ないようにしているシュタイナー理解があるのも
ちょっと理解しがたいものがあるが、キリストについても同様である。

シュタイナーは、キリストについて告げるのが人智学の義務であり、
心魂がキリストと一つになれるために人智学がもたらされなければならないという。
であれば、キリストを取り去った人智学は義務を役割を放棄したことになる。

とはいえ、とくに日本で「キリスト」「イエス」というと、
クリスマス以外になじみのない人が圧倒的多数であるように、
(クリスマスのときでさえ耳にしないかもしれないほど)
その名称から受けるイメージは偏見に満ちているだろうし、
そのキリスト教的なものに限定されないとなると
なおのこと理解しがたくなるのは仕方のないところがある。

しかし、自分の目の前の覆いをほんの少し取り除くだけで、
シュタイナーの示唆している「キリスト」は、
通常のキリスト教ではないということはすぐに理解できるはずであり、
さらに重要なことは、「キリスト」という名前にとらわれる必要がないことも
理解できるはずである。
「キリスト衝動」は、通常のキリスト教や
「キリスト」という名称によって制限されるものではない。

もちろん、こうして現代の日本に生きていて、
シュタイナーに興味をもっているのだとしたら、
シュタイナーの示唆しているキリスト観について理解し、
その光のもとで、キリスト教を理解し、
聖書を福音書を読み込むことができることを
大きな恩恵としても受け取ることができる。

というのも、ぼく自身がまったくキリスト教には縁がなく、
ほとんど偏見に満ちていたかもしれなかった事実があり、
そしてシュタイナーのキリスト観を通じてキリスト教を調べることにより、
キリスト衝動のさまざまなあらわれについて
貧しいながらも理解を深めることができるようになったからである。

今でもとくに通常のキリスト教に親近感があるわけではないし、
感覚的にも近しいとは言い難いところがあるものの、
少なくともたとえば聖書を読んだり
それについて書かれてあるものを読んだりときに
さまざまな発見だけではなくどきどきするような感動さえ得ることができる。