シュタイナーノート123

科学と霊学


2006.1.30.

たとえば現代科学の所説に従う人には到底受け容れられないと思える
ような場合がいくらでも出てくる。本当に霊学の立場と矛盾する研究
成果は科学の分野においても存在しない。しかし偏見に惑わされてい
る人にとって、科学の研究成果を規準にすれば、超感覚的世界につい
ての記述と特定の科学的認識との間に一致点を見出すことはできない
と信じることのほうがはるかに容易なのである。しかしあらためて霊
学と真の実証科学との研究成果をよく比較してみるなら、両者の間に
存する見事なまでの完全な一致がますます認められるようになってく
る。
霊学には単なる悟性だけでは判断しえぬような部分も当然存在する。
けれども悟性だけではなく、健全な感情もまた真理の判定者となるこ
とができる。このことが分かれば、悟性の及ばぬ部分に対しても確か
な係わりをもつことが困難ではなくなる。その時々の共感、反感だけ
を頼りに判断するのではなく、感情が超感覚的世界の認識内容を、本
当に偏見を捨てて、自分に作用させてみるときには、その感情の中か
らふさわしい価値判断の規準が生じてくる。
・・・
本書は、自分の真理感覚や心理感情の中に超感覚的世界の確認と保証
を求める人々に役立つことを願って書かれた。しかしそれ以上に本書
は超感覚的認識への道そのものを求めている人々のために何か本質的
な事柄を伝えたいと願っている。ここに記述された内容が真実か否か
を確かめるには、それを自分自身の中に生かしてみることが一番望ま
しい。そうする意図をもって心的能力の開発についての記述を読むた
めには、特定の知識を読者に伝える他の多くの書物に対する場合以上
のことが必要になってくる。表現内容の中へ今まで以上に深く参入し
なければならない。ひとつの事柄を理解しようとする場合にも、その
事柄について書かれている箇所だけではなく、まったく別の事柄につ
いて書かれた部分にも眼を向けるべきだ、という前提に立たねばなら
ない。ひとつの真理の中に本質が存在するのではなく、あらゆる部分
的真理の調和と一致の中にそれがある、という見方をもつことが大切
なのである。
(シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』筑摩文庫
 第三版のまえがき より/P10-13)

科学的でなければならない、という規範は科学的ではなく、
自分が「科学」であると信じているものへの真理感情であって、
「科学」とされているもののパラダイムが変化すると
その真理感情の対象もまた変化しえるということを知っておく必要がある。

「科学」の検証作業に関しても、
その検証の対象というのは、あらかじめ閉じていて、
それはその対象範囲を超えたところを見ないということにおいて成立する。

科学が独善的な危険性をもつのは、
それらが意識化されないときであるように思う。

科学が霊学に否定的な意味での「オカルト」というレッテルを貼るのも、
「超感覚的世界についての記述と特定の科学的認識との間に
一致点を見出すことはできないと信じることのほうがはるかに容易」
だからである。

霊学において述べられていることがすべて正しいということはいえないし、
霊学的認識においてもその時々の限界はもちろん多大にあることは
知っておく必要があるが、
少なくとも、通常の科学とされている対象範囲よりも、
霊学はそれを包み込んで遙かに広大であるということはいえるのではないだろうか。

少なくとも、霊学においては、
認識者そのものの認識のありかたを問わないでは何も始まらない。
たとえば認識者の「内的平静」等の内的なありようは
霊学においては最初に問われるわけだが、
いわば科学者においてはそれが問われることはないだろう。

そういう科学者個々人の内的なありようを問わないがゆえに、
科学は暴走する技術と結びついて兵器の開発などに携わることもできるのである。
人をおびただしく殺戮する方法を開発することも容易である。
しかし霊学においては、それが黒魔術化しない限りにおいて
そうしたことに関わることは不可能になるだろう。

つまり、科学者の倫理というのは成立しえないし、
それが語られているように見えても、
そしてその科学者がたとえいかに素晴らしい人格を持っているとしても、
それは科学が科学であるための条件にはなりえないが、
霊学者の倫理というのは、霊学そのもののなかに含み込まれている。
そして霊学者は、不可知を前提にする宗教者とは異なり、
あくまでも対象領域、もちろん主体の認識能力をも
はるかに拡げた科学であるという位置づけも可能である。

現在ある科学とされているものは、対象領域を限定していると同時に、
認識者の認識能力をもきわめて狭いところに閉じこめている。
ハムレットのように、胡桃の殻のなかに閉じこめられても
無限の天地の主であると嘯いて見せることはできるかもしれないが、
実際のところ、そこから人間を真に豊かな方向に導くことは
きわめてむずかしいことなのではないだろうか。

同書の「第八版のあとがき」に次のようにある。

超感覚的なものに対する認識行為のためには人間の全存在が要求され
るということ、それ故このような認識行為に没頭する瞬間には、人間
のあらゆる力をそこに結集せざるを得ないということに。色彩を知覚
するためには眼と視神経といった部分だけが要求されるとすれば、超
感覚的認識行為は人間全体を要求するのである。人間全体が「眼」と
なり、「耳」となる。そうであるからこそ、超感覚的な認識の過程を
述べるに際しては、人間の変革が問題であるかのように思えてくるの
である。(P256)

現在の科学は、いわば人間をどんどん分裂させてしまいかねないが、
霊学は人間を変容させる契機を与えることで、
人間を「全体」である存在として再生させることも可能になる。
もちろん「自由」のもとで。