シュタイナーノート124

自我の誕生


2006.3.4

 人間の自我を研究していると必ず、根本的に異なるので別々の自我だと
見なされる二つの側面が自我にはあるという事実に直面させられる。一つ
はひたすら自己主張をし、常に生を自己と世界の対立という観点から見る
自我であり、もう一つは他の自我を考慮に入れ、愛を通して世界と結びつ
き、自らを見出すために自らを失う自我である。
・・・
現代においては自我を単なる経験の焦点として経験しなくてはならない、
というのは人間の歴史的進化の一部である。人間の自由が可能になったの
はこうした状況のおかげである。それは自己意識を獲得するためには通ら
なくてはならない狭いドアである。が、ずっと昔には、自我を内部の宇宙
的点として経験するどころか、大きな世界である大宇宙において経験して
いた。星や太陽や月、そして地球上での生活を見て、「私はそれだ
は私だ」と言った。あるいはこう言ったほうがいいかもしれない。その当
時自分のことを「私」と呼ぶ能力が少しでもあったなら、今日に至るまで
東洋の伝統において見られるようにその言葉を発していただろう、と。し
かし、その当時でさえ、夢の状態でしか体験されないこのほとんど意識的
でない自我は変容させる仲介者として働き、人間を直立させ、話し考える
可能性を与え、意識的な記憶によって経験が連続するようにした。この太
古の自我は縮まって現代の自我となった。現代においては、人間は自我を
消極的・否定的にしか経験していないと言ってもよかろうーーまわりにあ
るもののいずれでもないものが自分だと想定することになる。しかし、進
化する存在のある状態が最終的な形であると考えるのはまちがいであろう。
・・・この自我は最終的には自らが完全に意識的な霊的存在であることを
悟るが、この変容は人間だけでなくすべての自然にも影響を与えるので
る。
(A・C・ハーウッド『シュタイナー教育と子供』P.102-105)

自我についてのとらえ方は、現代ではかなり混乱しているように見える。
エゴイスティックなまでの自我をあくまでも主張するか、
逆に、その自我を「エゴ」だといって否定してしまうか、である。
おそらくその両者は、対極にありながらも、どこか似た響きをもっているよう に思える。

たとえば、ハワイの伝統的なフナの教えによれば、
自我を3つのレベルでとらえているようである。
低次の自我としてのウニヒピリ、日常的な自我としてのウハネ、
そして高次の自我としてのアウマクア。

よくニューエイジなどでいわれるハイアーセルフとかいうのは、
このうち高次の自我としてのアウマクアにあたるのだろうが、
その際、起こりがちなのは、
自分の低次の自我としてのありかたが
いきなり高次の自我となることができるというようなことではないかと思われる。
ハイアーセルフの好きな人は、日常的な自我を見据えたくないばかりに、
低次の自我からジャンプできると思いこんでいたりもするのだろう。
しかしそんなことはできない。
自己意識をしっかりもつこと、
つまり意識魂的な自我のありようを育てていくためには、
今この日常的な自我から出発しなければならないのである。
もちろん、その際には、低次の自我として働く可能性のある「私」、
ある意味で、低次のアストラル的なあり方を克服するということが必要である。

シュタイナーは、自我の働きが中心にあって、
それがアストラル体等に働きかけることによって
それを変容させる可能性をもっているということを示唆しているが、
やはり、重要なのは、今この日常的な「私」であるということを
きちんと理解しておく必要があるように思う。

自我を超え高次の自我意識を獲得するためには、
まずそうした日常的な自我をしっかりと持っていなければならない。
自分を見つめることのできない人は、
自分の外に逃げ出すことで自我を克服したと思いこもうとすることもあるだろうが、
そうしてしまうといつまでたっても、日常的な自我という基盤をつくりえないまま、
低次の自我がまさに我知らず暴走するのを止められなくなってしまう。
そして日常を見捨てて高次のものを目指そうとさえするのだが、
そこで高次であるかのように見えるものは、むしろその逆のものでしかない。
つまり、自由のないまま、我をなくしてしまうわけである。

今、人間はようやく自我の誕生に立ち会いながら、
まさにそこで格闘しているということもできるのだろうが、
だからこそ、日々の日常において、
しっかりとした自己意識の獲得をするということを
最優先させるのがいいのではないだろうか。
自己意識こそが、他者の自我を考慮にいれる「狭いドア」なのだから。