シュタイナーノート125

人智学はグノーシスの改新ではありえない


2006.5.25

159 グノーシスは、感受魂(感覚魂)の時代(ゴルゴタの秘跡発生前の三千年
から一千年まで)に、その本来の形態のなかで発展した。「神的なも の」は、先
行する感受体(感覚体)の時代には外界の感覚的印象にみずからを開 示したのに
対して、この感受魂の時代には人間に、内面のなかの霊内容としみず からを開示
する。
160 悟性魂(心情魂)の時代には、「神的なもの」の霊内容はただ色褪せた仕
方でのみ体験されうる。グノーシスは厳重な秘儀のなかに保管され た。人間が感
受魂をもはや活気づけることができなくなったとき、霊存在をとおし て、グノー
シスの認識内容ではなく、感情の内容が中世に運ばれた(聖杯伝説が このことを
示唆している)。それに平行して、悟性魂(心情魂)に進入する公教 的なグノー
シスは根絶された。
161 人智学はグノーシスの改新ではありえない。グノーシスは感受魂の発展に
関わっているからである。人智学はミカエルの活動の光のなかで、意 識魂から新
たな仕方による世界の理解、キリストの理解を発展させねばならな い。グノーシ
スはゴルゴタの秘跡当時、ゴルゴタの秘跡の意味をもっともよく人々 に理解させ
ることのできた、古代から保管されてきた認識の方法である。
(シュタイナー『人智学指導原則』/水声社)

悪とは時期はずれの善であるともいう。
善とか悪とかいうことを抜きにしても、
ある事柄やある内容そのものが、あるときには適したものとなり、
またある時には適さないものとなるということは理解しておく必要がある。

たとえばガブリエルの時代には、啓示が重要であり、
血縁や家族や民族などを重要視する必要があったのだけれど、
ミカエルの意識魂の時代には、むしろ進化の妨げになることにもなる。
ミカエルは啓示せず、人間個々人の自由における思考・判断がその基礎になってくる。

グノーシスについても、それが重要な時代があり、
またそうでなくなる時代があるということである。

キリスト教グノーシス派は、一般的にいえば、基本的に善悪の二元論で、地上 は基本的に悪であり、
キリストも実際に肉体をもった存在ではありえないとする。
ボゴミール派も、またその流れを汲んでいるらしいカタリ派も同様である。
カトリックは、それらを執拗に攻撃しカタリ派をまさに徹底的といっていいほ ど殲滅した。
まるで悪魔の仕業であるとしか思えないが、なぜそこまで徹底的だったのだろう。
資料を読んでいるだけでも、気持ちが悪くなってくるほどである。

カトリックにとってもっとも許すことのできなかったのは、
キリストが実際に肉体をもって地上を生きそして復活した、
ということが否定されるということなのだろう。
しかし、人間の肉体をふくむこの地上のすべてを
悪の神が創造したという視点からすれば、
キリストが肉体をもっていたなどということそのものを認めるわけにはいかなかった。
しかし、カトリックは人間には霊を認めず教会がそれを管理するとするわけで、
どちらにせよ徹底した二元論的発想だといえる。

後にパウロとなったサウロにしても、
いわゆる「回心」する前は、キリスト教徒を徹底して攻撃していた。
太陽霊であるキリストが人間となることなどとんでもないことだったのだ。
古代の秘儀においては、そのことは疑うべくもないことだった。

おそらくそれは、上記の引用部分からすれば、「感受魂(感覚魂)の時代」における
グノーシス的なあり方だということだったのだろう。

仏教もある意味きわめてグノーシス的なところがあるのだけれど、
とくに大乗仏教においては「色心不二」というような「不二」が重要であり、
修行者の実際の修行のあり方はきわめて聖俗二元的ではありながら、
人間を含む森羅万象が「成仏」する可能性を有している
いやすでに成仏しているがそれに気づいていないだけ、ともいわれ、
善と悪、精神と肉体(物質)の対立ではなく本来「不二」であることが説かれる。

キリスト教の時代は、その最初期から、古代の叡智をスポイルし、
異端を排除し、撲滅しようとする、愚かな時代だということもできるだろうし、
それがそれほどの愚かさでなされなければならなかったとも思わないのだけれど、
そのように、自他を善悪を、物質と精神を裁断し際立たせることで
可能となったものもあるというふうにとらえることもできるのかもしれない。
いずれは、「不二」へと向かうであろうものも、
最初から不二であることではなしえないなにかがプロセスとして必要であった
と考えることもできるのである。

「人智学は グノーシスの改新ではありえない」ことは、
古代において必要だった叡智の形と同様にとらえてはならないということでもあり、
そしてなおかつ、近代的なさまざまな認識を踏まえながらも
それがあらたな統合の相のもとに置かれなければならない
ということを意味しているように思える。

シュタイナーの出発点は「自由の哲学」であった。
それはある意味、ミカエルの時代に対応した個の時代のもの。
キリスト理解においてもその理解は現代に相応したものでなければならないだろう。