シュタイナーノート127

真実の陥穽


2006.9.17

 現在でもカントやショーペンハウアーの影響を受けた哲学が、全宇 宙は人間の
表象にすぎない、人間は眼がなければ、どんな光も知覚しない、眼が なければ、
われわれの周囲は闇でしかない、と論じています。確かにそれは真実 なのですが、
しかし大切なのは、それが真実であることではなく、真実が常に真実 の一側面に
すぎない、と考えることです。真実を完全なものにするためには、別 の真実を付
け加えなければなりません。そうでないと、私たちは真実を抱えて、 誤謬の中に
突き進んでいくことになりかねません。そもそも、間違ったことを主 張するとき
の間違いは、最悪の間違いではありません。そのときには、世間が頭 を正しい位
置に直してくれます。しかし一面的な真理を絶対的な真理だと思い、 正しいこと
をどんな場合にも正しいと思うときの間違いは、誤謬によってではな く、真理に
よって間違えるのですから、もっと深刻です。
(・・・)
 真理を問題にする場合には、いつでも、それを一方の側からだけで なく、別の
側からも見なければなりません。大抵の哲学者が誤謬に陥るのは、間 違ったこと
を言うからではなく、一面だけから見た真理を語るからなのです。そ の場合、真
理を語っているので、簡単には論破できないのです。

(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第6講 P.158-159
シュタイナーコレクション3「照応ずる宇宙」所収 筑摩書房)

一面的な真実は、単なる誤謬よりも始末に負えない。
シュタイナーは、このことをおりにふれて繰り返し語っている。
このことは自己認識においても、非常に重要なことなので、ノートしておきた いと思った。

間違っているこを間違っていると気づくということさえ思いの外難しい。
多くの人は別に正しいことをしたいと思っているのではなく、
自分がそうしたいと思っていることに向かって進みたいだけなのだから。
世の中には、間違っているということを認めることのできない人があふれていて、
そういう人たちはほとんど聴く耳をもたない状態になっている。

しかし、間違っていることは、その間違っているということにおいて、
長い目で見ればそれに気づかされる可能性がまだしもあるのだけれど、
なまじ一面的にもせよ正しいことというのは、その可能性を持てないのである。
正しいことを正しいとして何が悪い!というわけである。

ある人が「真実」を見つけて、これだ!と思う。
「真実」を見出すことは大切なことである。
問題は、その「真実」の一面性に気づけないということにある。

仏陀は中なる道を説いた。

ある修行者は苦行と説いた。
苦行によってしか真理は体得できない。
それはある種の「真実」かもしれない。
しかし苦行によって張りつめられた弦は
美しい音色をもはや奏でることはできないだろう。
ひょっとしたらあまりに張りつめすぎてその弦は切れてしまうかもしれない。

逆にある人は、快楽の中にすべてがると考えた。
地上を生きている私たちは、なにも苦しむために生まれてきたのではない。
楽しんでいきなければ生まれてきた意味はないだろう。
それもある意味「真実」ではあろう。
しかし快楽によって弛緩してしまった弦は
美しい音色はとても聴けたものではない。

このどちらも「真実」であることに間違いはないだろうが、
どちらもその一面性のなかにしがみついていることに違いはない。
みずからが一面的であるという視点が欠けていて、
それを絶対的な真実と見なしてしまうがゆえに、
視点を変えることはできないし、
そうすることで別の「真実」が見えてくることに気づけない。

仏陀の中なる道は、ある意味、一面的な真理に気づき、
視点を常に多くもちながら、その統合をめざすものであるということができる。
もちろん、仏陀の視点もまたキリストによって再統合されることになった。
仏陀は愛(渇愛ではなく)を説いたが、キリストは愛を生きた、ように。

そのように、自分の視点を真理だとみなす者は、
とんでもない落とし穴をそこに持つことになる。
人は、一度手にしたお気に入りのおもちゃ・道具を
手放してみる勇気をなかなか持てないのである。
それを仏陀は執着といった。
一面的な真実への執着は、高次の真実への道を閉ざしてしまう。
いわゆる「専門」のなかで自己撞着してしまうのもそのひとつだろう。
そのことは、常に心しておく必要がある。