シュタイナーノート128

気質から自由になる


2006.9.24.

 人生において獲得した自分の魂の性質を自覚するのは、それほど難 しいことで
はありませんが、気質のように、身体にまで働きかける半ば無意識的 な特質を自
覚するのは、非常にむずかしいのです。自己認識ができないのは、大 抵の場合、
自分の判断を正しいと思っているからです。世界についての自分の判 断をいつで
も正しいと思いたがるのは、利己的な傾向です。このことを悪いと言 うつもりは
ありません。それは人間にとって、まったく当然の傾向だからです。 たとえ一面
的であっても、自分のその判断が信じられなかったら、日常生活をど う送ったら
いいかわからなくなります。
 けれども、私たちがしっかりと自分自身の上に立つとき、すでにそ の立場が自
分の気質に根ざしたものであることを、自覚していなければなりません。
 自分の気質から自由になるのは、非常に困難なことなのです。自 分自身と客観
的に向き合うことができるようになるためには、徹底した自己教育が 必要です。
真の神智学者は、必ず次のように語ります。ーー「魂が成熟している かどうかは、
理論的にではなく、実際に霊界に参入することができるかどうかにか かっている、
と考えるのは正しくない。もはや自分の意見を持とうとしない人だけ が、真理に
到ることができるのだ。このことに気づいていない人は、魂が成熟し ているとは
言えない。自分の意見については、次のように言えなければならな い。ーー私は
一度、自分の意見をこころの前に置き、人生のどの時期に私がこの意 見を持つよ
うに促されたのか、振り返ってみよう」。
 誰かが特定の政治的傾向を持っていたとしましょう。もしもその人 が霊界に参
入しいようと望むなら、あらかじめその前に、私の人生がどのように して、こう
いう立場をとるように私を促したのか、という問いの前に客観的に立 つことがで
きなければならないのです。もしもカルマが別の人生を歩むように私 を促したと
したら、私は別の考え方をしていたかもしれません。
 この問いの前に一度思いついて立ってみるというのではなく、繰り 返してこの
問いの前に立ち、この問題に取り組むのです。そうすれば自分から抜 け出る一歩
を踏み出す可能性が出てくるでしょう。そうでなければ、いつまでた っても自分
の中に留まり続けるでしょう。
(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第7講  P.168-170
シュタイナーコレクション3「照応ずる宇宙」所収 筑摩書房)

多血質の勝つ子供のとなりには、
たとえば粘液質の子供を座らせるのではなく、
同じ多血質の勝つ子供を座らせると、
その落ち着きのなさが緩和されることになる。
自分の気質を鏡に映して見せてあげるということだろうか。
そのことで、自分がいったいどういう状態かが知れ、自動制御装置が働く。

しかしこれはおそらく、その教室のなかの離れた場所で、
別の気質の子供達がいるということで成立することなのかもしれない。
というのも、教室のような狭く閉じた場所ではかならずしもないとしても、
ある地域の住民が全体としてもっている気質がかなり似通ってしまい、
それが互いの「鏡」としては働かないように見えるからである。

住む地域を変えてみると、以前に住んでいたところとは
まるで違うその地域のひとたちの持っている気質の様態が実感されることがある。
それまで多血質の勝った人たちのなかで過ごすのと、
粘液質と胆汁質が勝っているとしか思えない人たちのなかで過ごすのとは
かなり勝手が違うわけである。

それはともかく、自分の気質をまず知るには、
自分の気質を「鏡」のように見せてくれる状況と
それが「鏡」であるということがわかるために、
自分とは異なった気質の存在をも実感する必要がありそうである。
自分の気質をよく把握できないとしたら、それは
その両者を実感として観察することができないからなのだろう。
しかし、ちゃんとした観察力を持続的に持とうとすればそれだけで、
自分の気質をある程度把握することはそんなに難しいことではない。

難しいのは、自分の気質から自由になるということである。
気質は「身体にまで働きかける半ば無意識的な特質」なので、
それを自分を外から見てそれに働きかけ、変化させるというのは、
ある意味、自分の髪の毛を引っ張り上げて
自分を空のほうにひっぱりあげるようなものである。
そういうかたちで自分の気質を変えようとしてもうまくいかない。

そうでなく、むしろ自分がいま立っているとのがどこであり、
なぜ今この場所に立っているのか、
そしてこの場所に立つようになったプロセスなどを
繰り返し自分に問いかけてみることなくしては、
そのことから自由になるきっかけは得られないだろう。

そして、自分が今正しいと判断していることが
もし今の自分の立場からではなく別の立場から見ればどう判断できるのか、
そうしたときにも果たしてそれを正しいと判断できるかどうか
問いかけ続けることが必要である。

ごく単純な例を挙げてみることにする。
ある自体に遭遇し自分がいま怒っているとする。
そのとき、自分が怒っているのはなぜだろう。
その状況や相手が自分に及ぼしている要素、
自分がどの部分に怒っているのかなどを見る。
そして、もしここに自分ではなくまったく別の気質の人間がいるとすれば、
同じ態度をとっているかどうかを同様に見てみるのである。
もしこういう人がいるとすれば、自分とはまったく別の反応や判断をして、
相手に対している可能性についてさまざまな角度から検討してみる。
こうしたことはときに大変困難なことではあるが、
少しでも余裕のあるときにそうしたことを試みてみるのは大変有益である。

自分がほとんど無意識に発現させている自分の気質に対して
それをまるで他者の気質であるかのようにとらえてみること。
そうすることで、自分が否応なくその気質の「井戸」に落ち込んでいる状況から、
抜け出すきっかけを得ることができる。
根本的に気質を変えることができないにしても、
少なくとも、自分の気質を戦略的に(道具のように)用いる、
つまり自分の気質から距離をなにがしか距離をとることもできるのではないだろうか。