シュタイナーノート129

困難な人生を克服する力


2006.9.24

 困難な人生を克服する力が持てるようになったときにのみ、自分の 未熟さの隣
に存在する理想の姿に、恐れず、気落ちすることもなく、眼を向ける ことができ
ます。そのために私たちは、霊界に参入する前にこの世の人生の苦し み、悩みを
克服する魂の力を、たとえどんな否定的な感情に襲われても、たとえ 自分の身に
何が起こっても、またマクロコスモスの世界で何に出会っても、耐え ていける力
を鍛えなければなりません。
(・・・)
 こうして身につけたものは、霊界においても通用します。…私たち は自己教育
によって、未熟な自分の作り出す障害はすべて克服しようと、決心し ます。もは
や自分の中の未熟な人間によっていらだたされもせず、打ちのめされ もしません。
自分の中の未熟な人間としっかり向き合うことができます。
(・・・)
 現代という時代は、こうした考え方を必要としているのに、その一 方でその考
えをひどく嫌ってもいます。現代は特別な過渡期なのです。現代人 は、自分が不
完全な人間であることを理論的に認めてはいても、通常は理論以上に 出ることが
ありません。時代の精神状況を見れば、そのことがよくわかります。
(・・・)
「私には何が認識でき、何を認識できないか分かっている。人は自分 を更に進化
させる必要など、まったくない」と言い始めると、深刻な問題が生じます。
 そういう言い方をする人は、自分で自分の進む道を閉ざしてしまう からです。
実に多くの人が、今、自分で自分の進化を妨げています。
(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』第7講  P.177-182
シュタイナーコレクション3「照応ずる宇宙」所収 筑摩書房)

『自由の哲学』のはじめには、認識の限界についての話がでてくる。
認識には限界があるという視点には、大きくわけて2つあって、
今、あることが認識できないという現状という視点と
永遠に認識できないという視点とがあって、
シュタイナーが批判しているのは後者である。
何でも今すぐ認識できる、そのための超感覚的認識なのだ、
というようなことを言おうとしているのではないのは無論である。

重要なのは、今自分が認識できないでいることを認めながらも、
その認識を深化、拡大させていく可能性という視点をもつことでなのである。
今それがわからないとしても、かならずわかるときがくる。
そのためにできる課題に、性急になることなく、持続的に取り組んでいこう。
その姿勢が不可欠だというのである。

『自由の哲学』のむずかしさは、
そういう視点があるということを理解するむずかしさではなく
今の自分は未熟であって、現状を克服するために自分がなにかをしなければならない、
ということを認めることをめぐるむずかしさであるように思える。

ある人は、自分は十分に自分であって自分を変える必要があることを認めない、
ある人は、自分の今の苦難は、自分のせいではなく他者・環境のせいであるとして、
それが変わらないかぎり自分が変わるということはないと思っている、
ある人は、自分を変化させる自由をおそれていて、
自由に自分がなにかをできる可能性を信じることができない、
自由を破滅へのロードのようなものとしてしか見ることができない。
どちらにしても、自分が無限に進化可能な存在であることを認めない、
つまり自分が自分から変わることを頑なに認めないことで、
自分の今の認識の限界のなかに自分で閉じこもっている。

今の自分をかぎりなく未熟な存在であると認めながらも、
その未熟であることに開き直るのではなく、
また未熟な存在であることを認めないままエゴを拡大するのではなく、
自分の未熟さにしっかり向きあい問い続けることを忘れず
認識に限界をつくらないという可能性に向けた自由を創造し続けること。
それが、今のこのかぎりなく困難な人生を克服するための
もっとも重要な力となるのではないだろうか。