シュタイナーノート134

矛盾からの出発


2007.3.18

   抽象的な論理、抽象的、知的な思考は、まさに高次の世界観の中に矛盾を
   見つけて、「この世界観は矛盾だらけで、とてもまともに扱えない」、と
   言います。しかし本当は、生命という、宇宙の奇蹟の生きた仕組みそのも
   のが矛盾だらけなのであり、一切の事物の中に、本質上矛盾が存在してい
   るのでなければ、宇宙はそもそも生成する可能性がないのです。事実、ど
   んな世界も今日と昨日とでは違います。
   ではどうして、万物は今あるがままではいられないのでしょうか。なぜな
   ら、事物の昨日の在り方の中に、自己矛盾が存在していたのだからです。
   事物をあるがままに考察する人は、矛盾を指摘することで、間違いを明ら
   かにするだけではすみません。どんな現実の中にも、矛盾があります。矛
   盾のない人間の魂など存在しません。私たちの人生は、或るとき振り返っ
   てみると、矛盾だらけなのです。前の人生より後の人生の方がより完全だ
   としたら、それは私たちが前の状態を克服したからです。前の状態に矛盾
   を見つけ、その矛盾の中で私たち自身の内的存在の現実を呼び出したから
   なのです。
   (ルドルフ・シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』第6講より
    シュタイナーコレクション4『神々との出会い』筑摩書房 所収 P.153)

ここで気をつけなければならないのは、
理解できないことを矛盾だと安易にとらえないようにするということだろう。
理解しようとする努力を放棄するのはたやすいことなのだから。
したがって、理解の努力の果てにあるどうしても超えられない矛盾について
ここでは考えることが必要になる。

また、この「矛盾」について考えようとするとき、思い浮かぶのは、
シュタイナーの『社会の未来』(イザラ書房)にある次の言葉だろう。

   今日では、私は善き人間として安住の地を得、すべての人間を愛する思想
   を伝えたい、などと望むことが大切なのではありません。私たちが社会過
   程の中に生きて、悪しき人類と共に悪しき人にもなれる才能を発揮できる
   ということが大切なのです。悪い存在であることが良いことだからではな
   く、克服されるべき社会秩序がひとりひとりにそのような生き方を強いて
   いるからなのです。自分がどんなに善良な存在であるかという幻想を抱い
   て生きようとしたり、指をしゃぶってきれいにして、他の人間よりも自分
   の方が清らかである、と考えたりするのではなく、私たちが社会秩序の中
   にあって、幻想にふけらず、醒めていることが必要なのです。なぜなら幻
   想にふけることが少なければ少ないほど、社会有機体の健全化のために協
   力し、今日の人々を深く捉えている催眠状態から目覚めようとする意気込
   みが強くなるでしょうから。(P.30-31)

みずからの内にある悪を認めるのは、
自分を善良だと思いたい人にとっては矛盾以外のなにものでもないだろう。
しかし、その種の矛盾のよに見えるものはとくに矛盾というほどのものではない。
その思いこみは単に幻想にふけりたいために、
事実を見据えないだけのことなのだから。

重要なのは、「催眠状態から目覚めようとする」ことなのである。
目ざめることで見えてくるさまざまな矛盾から目をそらさないでいること。

ニューエイジでよく強調されもする「あるがまま」が危険なのは、
必然的な矛盾について目をそらしてしまうからであり、
そのことがみずからの不完全さを直視することを避けるために、
より完全である自分へと成長する推進力をスポイルしてしまうからである。

自分があるがままですでに完全であり善良であるというのは、
自分のなかにすでにあるさまざまな矛盾を見ないということである。
身近にあって少し努力しさえすれば克服できることさえ
それを自分を成長させる推進力として働かせることができず、
いきなり「人類の救済のための祈り」のようなものに転嫁してしまったりもする。
「考える」ことができないがゆえの「祈り」になってしまう。

「祈り」は、「考える」ことを極めた果てに、
その「考える」ことがはらんでいる矛盾を統合するものとしてなければならない。
「なぜそうなのか」「どうすれば今目の前にあることを克服できるのか」
その多くは、まさに今自分がそこで自分を成長させる契機を
どう生かすかということに関わっている。
矛盾を克服しようとする努力という基礎がないところには、
どんな「祈り」も、本来のところにむけて発されることはむずかしいだろう。

まず個々の人間において重要なのは、「思考の能動性」であり、
それによって、ある意味、みずからが否応なくもっている
さまざまな「矛盾」について自覚的になることではないだろうか。

「矛盾」は「問い」につながる。
その人がどのような「問い」を可能にするかということは、
その人が「矛盾」であるととらえているものを反映している。
自分が何を矛盾だととらえ、どのような問いを発しているかを
自問自答してみれば、その人の今の「内的存在の現実」が見えてくる。

なぜ自分は尊敬されないのだろう、
というようなある意味愚かな問いをもっているとするならば、
その問いの根源にある「矛盾」としての自分の「内的存在の現実」には、
尊敬される自分という結果のみをほしがる自分がいて、
その、「尊敬されたい」という願望、「尊敬されることによる歓楽」、といった
さまざまな矛盾がカオスのようにうごめいているのがわかる。

こんな馬鹿げた矛盾はわかりやすいのだけれど、
その人にはその人なりの成長度合いに応じたさまざまな矛盾が存在していて、
それを克服するための契機としてそうしたさまざまな矛盾を
いかに問いとして自覚するかということが大きな課題となる。

愚かなのは、みずからの明らかな矛盾を矛盾としてとらえることをしないまま、
それを問わないままその矛盾に飲み込まれてしまうことだろう。
「思考の能動性」はまさにその「問い」に関わるものなのである。