シュタイナーノート138

畏敬


2007.5.7

   われわれよりももっと高次の存在があるという深い感情を自分の中
  に生み出すのでなければ、われわれ自身の存在が高次の存在へ高まる
  力を内部に見出すことはできないであろう。
  (・・・)
   世界と人生について判断する際に、軽蔑したり裁いたり批判したり
  しようとする自分の態度の中に何がひそんでいるのか。それに注目し
  ようとする瞬間は常にわれわれを高次の認識へ近づけてくれる。そし
  てこのような瞬間に、われわれが意識の中の世界と人生についての思
  考内容を賛美、敬意、尊敬で満たすような場合、われわれは特に急速
  な進歩を遂げる。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
   「第八版のあとがき」より ちくま学芸文庫/高橋巌訳/P.26-30)

自分のなかの皮肉屋や裁判官が、
いかに自分の中の大切なものをスポイルしてしまうか。
生まれてこの方のみずからのそうした態度のなかにこそ、
みずからを低めてしまうものがどれほどあったのか。
そのことに気づいたときの驚きはどれほどだったか。

シュタイナーを読んで、ある意味、もっとも驚かされたのは、
この畏敬の念の大切さに気づいたときだったといっても過言ではない。

人は、自分の下に人をつくりたがる。
そしてその裏返しのように、上に人をつくりたがる。
その両者はおそらく同じことで、同時に起こり得る。
その両者が裏表になっているとき、畏敬の念はただの飾りものになってしまう。

なにがなんでも自分を低めよというのではなく、
自分のエゴの戦略が、軽蔑や裁きや批判となって、
巧妙な賢い姿をとって現われることに注意深くある必要があるということだ。
軽蔑や裁きや批判のなかには、賛美、敬意、尊敬は存在しない。
世界や人生はそこでは肯定されることはない。
つまり、それらが美しく語りかけてくることはないのである。

現代人は、軽蔑や裁きや批判があまりにも得意になり、
そうしなくては、自分が今ここにいることが脅かされてしまうような
そんな感覚に陥っているのかもしれない。
差別や逆差別の、ときに巧妙に隠された応酬の醜さもそれと同様である。

しかし、たとえば、自分がこうありたいという理想を見出すことができなければ、
その理想に向かって進む道もまだ見出すことはできない。
自分が今いちばん偉いかのように錯覚しているなかには、
そうした理想の存在する場所はないのである。
自分がいちばん不幸であると思い込んでいる人も同様で、
そこには、自分が高まることによって可能になるであろうものを
見出すことはかぎりなくむずかしいといえるのではないだろうか。
自分がこうありたいという理想(とは呼べないが)なるものが、
権力者だったり、ただの金持ちだったりするときにも、事情は似ている。

人は、自分のなかに高次の賛美、敬意、尊敬に値するものへの可能性を
少しなりとも見出すことさえできれば、それだけで生きていく力を得る。
そしてそれこそが、神秘学のめざすものだともいえるとぼくは今思っている。