自分で評価を下すことのできる事柄はあらためて学びとる必要のな
い事柄である。このことを常に念頭においておく必要がある。それ故
もっぱら判断を下してばかりいる人は、そもそも何も学んでいない訳
である。しかし神秘道においては、学ぶという行為がすべてなのであ
る。ここではもっぱら学び続けようとする意志が問題なのである。理
解できないことに出会ったなら、それに対して否定的な態度をとろう
とせずに、むしろ全然判断を停止した方がよい。そして理解を将来に
残しておけばよい。
(シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
「第八版のあとがき」より ちくま学芸文庫/高橋巌訳/P.136)
『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著・中公新書ラクレ)には
現代の子どもたちの変貌がある意味衝撃的に報告されている。
「オレ様」は、自分が知らないこと、理解できないことを認めない。
知らないこと、理解できないことは、自分には関係ないこと、
理解する必要のないことなのだ。
これはなにも子どもだけのことではない。
自分が理解できないことについて、
どれだけの人が今自分が理解できないことを認め、
理解できるようにするために学び、
そして今理解できないとしても、
理解に向けて一歩を歩み始めようとするだろうか。
人は、自分が判断できるに至っていないのだということを認めない。
自分の知らないこと、理解できないことに対して、容易に「オレ様」化する。
自分は知っていると思えば、新たに知ることはできない。
自分は知らないと知れば、すべてを新たに学ぶことができる。
コップに水がいっぱいになっていれば、そこに水は注げず、
コップを空にすれば、たくさん水を注ぐことができる。
神秘学を学ぶということは、
かぎりなく多くを学ぼうとするということである。
学ぶことを人に委ねないということである。
そして学ぶことで、自分だけの知識の財宝を蓄えるなどとは思わないことである。
「オレ様」化した自称神秘学徒はいうだろう。
「おれはすでに多くを学んだ。おまえたちにそれを教えてあげよう」。
そして、学んだことでいっぱいになった自分をどんどん貧しくさせていき、
そのなかで溺れはじめることだろう。
学ぶ必要のあるさまざまが近づこうとしても近づくことができなくなるだろう。 |