シュタイナーノート141

人格の分裂


2007.5.30

突然子供が親の首を切ってしまうような
信じられないような事件はなぜ起こるのだろう。
戦争での殺戮などのような集団的な狂気というのではなく、
ごくごく日常的な状況のなかで個人的なレベルでそれらの事件は起こる。

池田晶子は、そうした事件を起こす人間について
もはや理解不能であるという意味のことさえ言っていたりもしたが、
やはりそうした事件がなぜ起こってしまうのかを
人間の人格の形成ということから考えてみる必要があるのではないかと思う。

シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』には
「神秘修行における人格の分裂」の章が設けられているが、
そこに述べられていることから、
なぜそのように人格が破綻してしまうのかを考えてみることにしたい。

神秘修行のある段階において、
人間の魂の三つの基本的な力である「意志」、「感情」、「思考」が
分裂してしまうという。
ふつうは、あらかじめその三つの力はある調和的な関係にあるのだが、
それぞれがばらばらに働くようになるというのである。
そして、神秘修行者は、そうなっても魂の調和的な働きを失わないように
「魂の調和的な発展」をしていなければならないという。
おそらく「自由の哲学」が「道徳的ファンタジー」を強調するのも、
その点に関連してくるのだろう。

しかし、神秘修行をしていないからといって
そうした人格の分裂がけっして起こらないというわけではないだろう。
神秘修行は「秘儀参入(イニシエーション)」ということでもあるのだが、
それはだれでもが通過する進化段階に先駆けて進化するということにすぎない ともいえる。
そして、人類全体としての進化もまたある種、飛躍的に進化する時期もまたあ るだろう。
現代がそういう時代であるかどうかは別として、
シュタイナーがそれまで隠されてきた神秘学的な秘儀の内容を公開したのも、
人間が「個」の「自由」な立場から、そうした進化段階を通過する必要性を
不可欠のものだと考えたからなのだろう。
そして、「教育」においてさまざまな示唆を行なったのも
そうした際の危険性を少しでもカヴァーする必要があったからなのかもしれない。

実際、現代において、人間の「意志」、「感情」、「思考」は
調和的な発展をしているとは見えない。
おそらく進化の流れとして、少しずつ、その三つの調和的な関係が
ゆるみはじめているのではないだろうか。
そしてさまざまな破壊的環境がそれらを無慈悲なまでに破壊してしまうことにもなる。

たとえば、かつて起こったオウム真理教の事件なども、
準備のできていない状況で、いわゆる「イニシーエション」なるものを受けることで
まさに「意志」、「感情」、「思考」が分裂してしまい、
自分が何をしているのかわからない状態になってしまったのではないだろうか。
古代の人間がもっていた魂の調和的なありかたを現代人はすでに失っている
ということもそこには大きな要因として働いていたのだろう。
中沢新一がこのオウム真理教の錯誤に気づくことができなかったのも
おそらくその古代志向的な傾向に原因があったのではないだろうか。

ちょうど島田裕巳が『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズム』(亜紀書房)で
オウムのテロリズムとそれに対する中沢新一の影響について批判しているが、
古代へと逆行してしまいかねない視点は
現代においてはとくに慎重な批判を受ける必要があるように思われる。
古代は古代のあり方があり、現代は現代のあり方があって、
古代が素晴らしかったからといって、現代にそれをそのまま持ち込むことは
それなりの危険にさらされるということである。
そして、その危険性の自覚のもとに、
みずからの「魂の調和的発展」を心がける必要があるということ。
そしてそのためにも「自由の哲学」が現代人には不可欠になってくるというこ とである。
しかし、おそらく日本人の多くはこの「自由の哲学」を理解するにあたって
さまざまな困難を抱えているようにも見える。
実際、この本をどれだけの人が読むことができるだろう。
「考える」ということさえ理解するのがむずかしく
池田晶子のような、きわめてやさしい表現さえ理解しない人が多いのだから。

さて、そうした魂の三つの基本的な力である意志、感情、思考と
その分裂の危険性について、以下に、シュタイナーの著書から引用紹介しておきたい。
もちろんこの内容は、その著書の全体の内容から理解していく必要があるのは いうまでもない。

   修行によって修行者のエーテル体とアストラル体に大きな変化が生じる
  ことは当然である。この変化は魂の三つの基本的な力、意志、感情、思考
  の進化の過程と関連している。この三つの力は修行以前には、高次の宇宙
  法則に従って相互に特定の結びつきを保っていた。人間は勝手な仕方で欲
  したり、感じたり、考えたりはしない。たとえば特定の表象が意識の中に
  現われれば、自然に特定の感情がそれと結びつく。あるいは、それと必然
  的に関連する決断を呼び起こす。
  (…)
   人間の霊的進化に際して、これら三つの基本的な魂の力を結びつけてい
  た糸が断ち切られる。(…)
   このようにして思考と感情と意志の器官は、それぞれ単独で存在するよ
  うになる。それらの結びつきは、もはやあらかじめそこに植えつけられた
  規則によって作り出されることはできず、人間自身の中に目覚めた高い意
  識によって、新たに作り出されねばならない。ーーそしてそのことこそ、
  神秘修行者がみずからのうちに認める変化なのである。今や修行者は自分
  で意識的に配慮するのでなければ、自分の表象と感情、もしくは感情と意
  志決定との間に何らの関連も生じなくなってしまう。いかなる誘因も、も
  しそれを意識的に自分自身に作用させようとしなければ、思考から行為へ
  導かなくなる。以前なら、燃えるような愛情や恐るべき嫌悪に襲われたで
  あろうような事実を前にしても、今はまったく無感動なまま、その前に立
  つことができる。(…)一方神秘修行を実行しない人間にとってはまった
  く何の動機も見出せないような意志決定からも、行為を遂行することがで
  きる。修行者に与えられる偉大な成果は、この三つの魂の力の協働作用を
  完全に自由に行ないうることである。しかしその場合の協働作用の責任は
  すべて、彼自身が背負わねばならない。
  (…)
   思考と感情と意志力のこの相互分裂は、神秘学上の指示を無視する場合、
  修行の過程で三つの誤謬を犯すことを可能にする。これらの誤謬は、高次
  の意識が相互に分裂した三つの力をいつでもふたたび自由に調和させうる
  能力を獲得する以前に、すでにこの分裂がはじめってしまった場合に生じ
  る。(…)意志的人間が神秘道を修行すると、感情と思考の調和的な影響
  力は、強大な作業能力をたえず行使したがる意志に対して完全に無力にな
  ってしまう。(…)自分を奴隷のように支配する権力意志によって鞭打た
  れる。
   感情が際限なく合法則的制約から解放されるとき、第二の邪道に落ち込
  む。他人を崇拝する傾向をもった人は、限りなく依存性を求め、自分の意
  志や思考をまったく見失ってしまうことになる。(…)思考が心の中で圧
  倒的地位を占めるとき、第三の悪が生み出される。その場合、日常生活を
  敵視する自己閉鎖的な隠遁世活が生じる。このような人にとって、世界は、
  無限に強められた認識衝動を満足させる対象を提供する限りにおいてのみ、
  意味を持つようになる。(…)
   以上が修行者の陥りがちな三つの邪道である。すなわち暴力的人間、感
  情的耽溺、愛情に欠けた冷たい認識衝動である。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
   ちくま学芸文庫/高橋巌訳/P.218-222)