●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

 <I-1/薔薇十字の歴史の概略>


ここでは、あえて「薔薇十字会の歴史」についての詳細については言及されない。というのも、文書として残っているそれからは知られるところはごくわずかであるし、ここでは、「薔薇十字的叡智」をその歴史からではなく、その「薔薇十字的叡智」そのものとして解明する、というのが主要テーマだからである。

ここでは、その歴史についてはその概略のみが言及される。

 ある高次の霊的存在が一人の人間の中に受肉しました。彼はクリスティアン・ローゼンクロイツと名乗り、一四五九年、小さな秘教的グループの師として姿を現しました。一四五九年、クリスティアン・ローゼンクロイツは結束固い秘密の霊的同胞団、薔薇十字会において黄金石の騎士になりました。(中略)薔薇十字の神智学という叡智は十八世紀に至るまで、強固な規則によって外的、公教的社会から隔離されて、ごく少数に限定された同胞団の中で守られてきました。

十八世紀に、この同胞団は、秘教的な霊統を中部ヨーロッパの文化の中に注ぎ込むという使命を持ちました。ですから、公的な文化の中に、たしかに外見上は公教的なものですが、公教的な表現をまとった秘教的叡智がさまざまな仕方で輝いているのを見ることができるのです。何世紀ににもわたって、さまざまな人々がなんとかして薔薇十字の叡智を看破しようと骨を折りましたが、その目的は果たせませんでした。(以下、ライプニッツ、レッシング、などの例/引用者注)(中略)

けれども、薔薇十字の叡智がとりわけ雄大な形で反映しているのは、十八世紀の転回期におけるヨーロッパ文化、ひいては世界文化に大きな役割を果たしたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(中略)においてです。ゲーテは比較的若い頃に、ある程度まで薔薇十字の源泉に達し、最高の秘儀のいくつかを伝授されました。(中略)

そのような秘儀の光は、ゲーテの友人たちがゲーテの作品のうちで最も深いものと呼んだ未完の長編詩『秘密』の中に見いだすことができます。事実、ゲーテは個の断片を完成させる力を再び見いだすことはできませんでした。当時の文化の潮流は、この詩の中に脈打つ生命の非常な深みに外的な力を与えるだけの力をまだ有していませんでした。この詩はゲーテの魂の最も深い泉として理解しなければなりません。この詩は、ゲーテにとって七つの封印のある書物のような存在です。ゲーテは、しかし、この秘儀から脱していき、この秘儀を意識化した後、ついに偉大な散文詩『百合姫と緑蛇の童話』を書くことができました。この散文詩は世界文学の中でも最も意味深い作品の一つです。この作品を正しく解釈できれば、薔薇十字的叡智について多くを知ることができます。(P16-17) 

「薔薇十字」というと、通常の歴史的文献では、ビュルテムベルクのプロテスタント系神学者のJ・V・アンドレーエが公にした1614年にドイツ語で書かれた小さな薔薇十字の宣言文である「ファーマ・フラテルニタス−称讃すべきR・C会のの兄弟団」(1614)「コンフェッシオ・フラテルニタティス−尊敬すべきローゼンクロイツの兄弟団の信条」(1615)が「クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚、1459」(1616)という三冊の文書が有名である。後者については、少し前に種村季弘訳で紀伊国屋書店からでているほか、教文館のキリスト教神秘主義著作集の16「近代の自然神秘思想」としてもだされているし、その他については、イエーツの「薔薇十字の覚醒」(工作舎)の巻末に収められているが、そういう資料はそれによってシュタイナーのいう「薔薇十字的叡智」を理解するためにはあまり役に立ちそうもないので、あえてふれない。

それよりも、むしろ上記の引用のなかにもあるように、ゲーテの『百合姫と緑蛇の童話』などについてふれるほうがいいように思う。これについては、読書会の進行のなかでもふれることがあるかもしれない。

ちなみに、シュタイナーは、1889年、はじまったばかりのワイマール版ゲーテ全集の編集に誘われ、1890年新しくつくられたゲーテ文庫に共同研究者のひとりとして参加する。その中で、シュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作を校訂、刊行する。それと平行して、「ショーペンハウアー全集」や「ジャン・パウル全集」のために文学史的な解説と評伝を執筆するなどの業績を残している。

また「ニーチェ」に関する重要著作も書かれていたりもする。シュタイナーのゲーテ研究については、邦訳においても、「ゲーテ的世界観の認識要綱」「ゲーテの自然観」などがだされており、それに関連するテーマとして、「自由の哲学」などの重要な哲学的著作も見逃すことはできない。 

話が「薔薇十字」からそれてしまったが、薔薇十字についての歴史的な話は、フランシス・ベーコンやデカルトなどとの関係などからみても、けっこう面白いのではあるけれども、そこらへんのことになると、この講義録の趣旨から離れすぎるので、ここでは、クリスティアン・ローゼンクロイツという名前と、「薔薇十字」という秘教的な流れが、いわゆる「公教」に対してあったのだな、といった程度を覚えていただければと思います。

 

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)

 <I-2/薔薇十字的叡智の特徴その1>


 

いよいよ、「薔薇十字的叡智」とはいったいどのようなものかについて具体的な話がはじまります。まずは、その特徴と社会的使命についてですが、それを、今回と次回の2回にわけてご説明することにします。

今回は「薔薇十字の叡智のさまざまな立場の人々に対する関わり方」についてですがそれについて、二つのことが語られています。ひとつめが「師に対する弟子のあり方」、ふたつめが「霊的叡智の一般的な精神生活に対する関係」です。

ひとつめの「師に対する弟子のあり方」に関して、「霊視」及び「権威への信頼」についてのことが語られます。

「霊視」に関しては、それは「霊聴」という意味も含んだもので、それが「宇宙の隠れた叡智を私たちに伝える薔薇十字的叡智の源」とされます。

高次の霊的能力、つまり霊視霊聴能力を発達させることなしに高次の世界の霊的真実を直接見いだすことは誰にもできません。霊的真実の発見には霊視力という前提が不可欠です。けれども、この前提が不可欠なのは真理の発見に関してのみです。今日まで、そしてこれからも、通常一般の論理的悟性によって把握できないものを、真の薔薇十字会が公教的な形で教えることはありません。ここが肝心なところです。(中略)霊的知覚能力が問題なのではありません。薔薇十字の叡智を思考によって把握できない人は、論理的理解力を十分に形成していないのです。今日の文化が提供し、人類が今日までに到達したものを受容し、忍耐と持続力を持って学習を怠らなければ、薔薇十字の導師の教えることを把握、理解することができます。薔薇十字の叡智に何らかの疑念を抱き、「自分にはこのようなことは理解できない」というのは、超感覚的世界が洞察できないからではなく、日常生活での経験を通しての論理的理解力の育成が十分になされていないからです。(P18-19) 

ここで提示されているのは、物事をちゃんと論理的に理解できるという能力の必要性ということで、好き嫌いで理解をねじ曲げたり、論理を破綻させたりすることによっては、薔薇十字的な叡智に近づくことはできないということです。「嫌いでも理解、好きならもっと理解」ということは、ここに関わるものです(^^)。ですから、こうした論理的理解力を身につけることなく、超能力!的なものの獲得をめざすような方向性というのは論外なわけです。

「権威への信頼」についてですが、ここでは、薔薇十字的な師と弟子の関係は、権威に対する信仰である東洋的なそれとは、本質的に異なっていることが説明されています。

薔薇十字の師は弟子に対して、あたかも大数学者が生徒に対するのと同じような対し方をしようとします。生徒は教師に、権威への信仰によって依存しているのではありません。(中略)教師が数学上の真理を生徒に伝えるとき、生徒は権威への信仰を必要とはしません。生徒は正確に真理を理解しさえすればいいのです。(P20-21) 

さきの、論理的理解力の必要性ということは、ここにもあらわれています。薔薇十字的叡智は、「教祖」を絶対視し拝むようなあり方とはまったく異なります。「真理」は理解し認識するべきものであり、それを崇拝するものではないのです。

その意味でも、先の「論理的理解力」の有無が、いわゆる宗教に傾斜するかそうでない叡智を求めるかの違いになってきます。もちろん、この「論理的理解力」というのは、もっと深い洞察力を含んだもので、単なる「お勉強ができる」というようなことを意味しているのではないのはもちろんです。

さて、ふたつめが「霊的叡智の一般的な精神生活に対する関係」ですが、ここでは、薔薇十字的叡智は単に論理的な体系づけのようなものをつくるのではなく「現代の知の根底を認識しようとし、霊的真理を日常生活に流入させようとするときに必要なもの」を提供するものとしてとらえられています。薔薇十字の叡智は、日々の行為にまで行き渡るものなわけです。 

薔薇十字会は人類の友愛のみを目的として創設された、人類の友愛を説くだけの協会ではありません。薔薇十字会員は次のように語ります。「脚を折った人が道に倒れているところに通りかかったと想像してみてください。十四人の人々が骨折した人を囲んで温かい感情と同情を抱いたとしても、その中の一人も骨折を治療する術を知らなかったなら、この十四人は感情豊かでなくとも骨折を治療できる一人の人に本質的には劣るのです」−−このような考えが薔薇十字会員を貫く精神なのです。霊的認識の日常生活への関与の可能性を、薔薇十字的神智学は提供します。薔薇十字の叡智にとって、同情心についての話は危険なものでもありうるのです。同情心を絶えまなく強調するのは、一種のアストラル的歓楽と考えられるからです。アストラル界において、物質界における歓楽に相当するものは、いつまでもただ感じようとし、認識しようとしない傾向です。生活に関与しうる日常的な認識−−もちろん、唯物論的な意味ではなく、霊界から下ってくる認識−−を通して私たちは実際的な働きができます。世界は進歩すべきであるという認識からは、おのずから調和が流れ出ます。そして、この調和は認識するときにおのずから生じるだけに、いっそう確実なものになります。同情心は持たずとも骨折を治療しうる人たちについて、「もし彼が人類に友愛を抱く者でないならば、骨を折って倒れている人を見ても、そのまま通り過ぎてしまうだろう」といわれるかもしれません。−−このような考え方は、物質界における認識においては可能です。けれども、霊的な認識においてはそのような異論は可能ではありません。日常生活に流れ込まないような霊的認識は存在しません。(P22-23) 

この「日常生活に流れ込まないような霊的認識は存在しません」、ということの関係で重要なのは、「知行合一」という陽明学的な認識様態です。シュタイナーの神秘学と陽明学的との関係については、林田明大「「真説・陽明学」入門」(三五館)が昨年でましたが、そのテーマは、シュタイナーでは「自由の哲学」でも展開されるような「道徳的ファンタジー」ということに集約されるように思います。いわゆる、この世では、思考が道徳的なあり方と乖離することは可能ですが、霊的認識としては、その乖離は不可能になります。

単純にいえば、いわゆる「思い」がそのまま展開する世界、もっといえば、「思い」が自分の存在そのものになっている世界ですから「思い」が邪悪であれば、その存在様態も邪悪になってしまうわけです。ですから、薔薇十字的叡智は、そのまま日常生活に流れ込んできます。わかりやすくいえば、その叡智が流れ込んでいるということを日常生活において深く認識できるようになるということもできるでしょうか。

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)

 <I-3/薔薇十字的叡智の特徴その2>


  

その特徴と社会的使命についての後半部分とこの章全体でのいわんとしていることのについてご説明します。

薔薇十字の叡智はいわゆる「超感覚的な能力」がなくても、通常の悟性による探求によって理解できるという非常に重要な側面です。このことは、霊能力だとか超能力だとかうことについてのアンチテーゼとしても重要な意味をもつものといえます。ここで大事なのは、ものごとを論理的に考えていく能力などをはじめとした人間の「魂の力」を綜合していくことなのであって、幻視だとかチャネリングだとかいう類のものなのではないということです。このことはいくら強調しても強調しすぎることはないくらいです。

 もう一つの特徴は、一見奇妙なことですが、薔薇十字の叡智は霊視能力を通してのみ見いだされるものでありながら、通常の悟性によって理解できるということです。霊界を体験するには霊視状態にある必要があります。けれども、霊視者が見たものを理解するためには霊視力を必要とはしません。霊視者が霊界から出てきて、今日の人類に必要な知識をもたらすために霊界で生起していることを語るとき、一般の人々は理解しようと欲すれば、霊視者の語る言葉を理解できるのです。人間は霊視者の言葉を理解できるという天性を賦与されているのです。 (P23) 

ここで気をつけなければいけないのは、「理解しようと欲すれば」ということですから、それなりの努力は必要になります。「努力がいらない」とは言っていないわけです。

まずはシュタイナーの提示している世界観を「仮説」としてとらえ、その仮説が「世界」をどれほど総合的に説明できるか。そういうことを見ていく必要があると思います。最初は、現在常識で説明されているそれとはその体系があまりに違うので、それをどう理解してよいかわからないという方の方が多いと思われますが、「部分」と「全体」というのは照らし合う関係にありますから、最初の「部分」の荒唐無稽さに抵抗感を感じながらも、次第に現れてくる「全体」との関係でそれを見ていくのが理解のためには適切ではないかと思います。

 

ある意味でいうと、薔薇十字の叡智はそれを理解しようとする魂の力に応じてその姿を現してくるということもいえるのではないかとぼくは思っていますし、目的は「知識」を得ることではなく、「魂の力」を育成するための認識力の養成ということなのですから、できるだけ射程を長くとって、ともに学んでいければいいなと思います。

さて、最後にこの章の総括として次のように述べられています。 

どのように物質界が創造されたかを知らなければ、世界を物質的に認識することはできないということがおわかりになると思います。物質界から隠遁しないというのが薔薇十字会員の任務です。物質界を霊化することが任務なのですから、物質界から隠遁するのはよくないのです。薔薇十字会員は霊的生活の最高の領域にまで上昇し、そこで得た認識をもって物質界、人間界の中で特別な働きをしなければなりません。これが薔薇十字会の叡智から直接生じる精神です。(P26) 

この総括に先立って、人間の本質(構成要素)に関する示唆やそれに基づいた物質界の成り立ちについての話がでてきますが、ここらへんについては、次章以降で詳しくとりあげられていますので、その部分に譲りたいと思います。

ここでの重要ポイントは、「物質界」は、それよりも高次の「界」を認識することによってしか理解できないから、そうした視点がどうしても必要になるということと、特にこれが重要なのですが、「物質界を霊化することが任務」ということです。

西洋の歴史は、現在優勢になっているような唯物論に至る歴史でもあり、それは外的世界の認識という意味では、必要なことでもありました。しかし、その唯物論的世界観は、物質界を成立させている「秘密」から目をそらした結果生まれている世界観です。ですから、その「秘密」を深く認識していくことを通じて、「物質界を霊化」していかなければならない時期にきています。

昨今、世を騒がせているオウムやそれを擁護していた幾人かの学者たちが陥っていたと思われるのは、現在の課題は「物質界の霊化」であるにもかかわらずその逆に「霊的世界の物質化」とでもいうあり方を推進するようなそんな逆転した衝動があったように思われることです。それが「コミューン化」という反社会的な形式を通じて、日常生活に流れ込んでくるべき霊的認識を閉ざし、特定の修行者だけのための超能力獲得やそれにかわるあり方の選択になります。それは時代の流れに逆行したものだと、薔薇十字的視点からはいえるでしょう。そういう意味で、「物質界の霊化」とは、社会に積極的に参加することでありその参加の際に、魂の科学とでもいうべき精神科学の衝動によって「物質界」を内側から「解放」するべく霊的認識を注ぎ込むことです。

少しわかりにくい表現になったかもしれませんが、この最初の「叡智の新しい型」という章では、精神科学(霊学)がもっている意義とでもいうべきものについての基本的な視点が提示されているといえるように思います。

 

(第1章「叡智の新しい型」の紹介終了)

 


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