●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<III-1/人間の魂の三つの状態【目覚め・眠り・夢】>


  

この第三章は「元素界と天界・目覚めと眠りと死」となっています。この章では、人間の意識状態のいくつかについてと死後の人間の状態について説明されていますが、この節ではその前者についての概略をご紹介させていただきます。

人間は生まれてから死ぬまでの間に、現在の進化段階においては、目覚め、眠り、夢という三つの魂の状態を生きています。ちなみに、死の状態にある人間については、次の節で扱います。また、高次の魂の状態に関しては、「秘儀参入」に関しての章で扱いますのでここでは詳しくはふれないことにします。

さて、人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我という4つの構成要素を有しているということは以前にふれました。そのことをふまえながら、人間の魂の三つの状態である【目覚め・眠り・夢】について見ていくことにします。

目覚めの状態にある人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我という4つの構成要素が合体している状態ですが、眠った状態の人間は、アストラル体と自我が、肉体とエーテル体から離された状態にあります。また、夢を見ているときには、アストラル体は肉体から離れているもののエーテル体に結びついている状態にあります。夢のない眠りの状態がまったく意識できないのは、記憶の媒体でもあるエーテル体と意識の主体でもあるアストラル体と自我が切り離されているからなのです。そして夢を見るというのは、エーテル体とアストラル体が結びついているのでアストラル的な形象として記憶のなかにそれがなにがしか刻印しているわけです。

ちなみに、人間が死ぬということは、生命体でもあるエーテル体をも肉体から切り離された状態になるということです。これについての詳細は次の節で扱います。

さて、肉体とエーテル体から切り離されたアストラル体と自我は、いったいどこにいるのかというと、アストラル界にいます。そこでいったいなにをしているのかというと、昼間に消耗して失ってしまった霊的エネルギーを補充しているのです。それをしないと人間は霊的エネルギーを失って枯渇してしまいます。それは植物が太陽光を浴びる必要があるのと同じです。夢見のない眠りの間に、アストラル界に出た自我とアストラル体からエーテル体と肉体にエネルギーが放射されているというのです。肉体の成長や活性化にはその放射が不可欠です。

その後60年代の終わり頃になって、夢見のない徐波睡眠といわれる時に人間の成長が起こることがわかっています。眠って70分ほど経った徐波睡眠時に、血液中の成長ホルモンの量が最高になるというとがわかったのです。

ちなみに、眠っている間、物質界では太陽の光ではなく、月の光が降り注いでいますが、その作用が突きの満ち欠けで変化するといいます。その作用は夢遊病を招くこともあるとシュタイナーは言っているようです。

では、この節の最後に、「神秘学概論」(イザラ書房)から睡眠中のアストラル体の働きについて。 

物質体が物質的な周囲の世界から食べ物を受け取るように、睡眠中、アストラル体はアストラル体を取り巻く世界から形象を受け取る。アストラル体は実際、物質体とエーテル体の外で、宇宙のなかに生きる。この宇宙から、人間全体は生まれたのである。この宇宙は形象の源であり、それらの形象から人間はみずからの形姿を受け取ったのである。人間は調和的にこの宇宙に組み込まれている。そして、起きているあいだ、人間はこの包括的な調和のなかから抜け出て、外的な知覚にいたる。眠りのなかで、人間のアストラル体はこの宇宙の調和のなかに帰る。起きているとき、人間はこの宇宙から多くの力を自分の身体のなかに取り入れ、しばらくのあいだ調和のなかにいなくてもいいようにする。睡眠中、アストラル体は故郷に帰り、起きるときに、新たに強めれれた力を人生のなかに持ってくる。アストラル体が目覚めのときにたずさえてくるものを外的に表現するのが、健康な眠りがもたらす爽快さである。アストラル体の故郷は、物質的周囲という狭い意味で物質体が属する世界よりも広範なものであることが、神秘学から明らかになる。つまり、物質的存在としての人間は、地球の一部であるが、アストラル体が属する世界は、地球のほかに諸天体をも含む世界である。のちの叙述によって明らかにされるが、地球以外の世界が属する世界へと、睡眠中アストラル体は入っていくのである。(P89-90) 

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<III-2/魂の世界における死後の魂>


 

この節では、人が死んでからどういう経過を辿っていくのかを見ていきます。人は眠っているときには、肉体とエーテル体からアストラル体と自我が離れているのだということをご説明しましたが、眠りと死の違いは、エーテル体も肉体から離れてしまうということです。

「死」ということに関しては、「死学(サナトロジー)」の創始者としても有名なアルフォンス・デーケンさんが有名で、曽野綾子さんとの往復書簡の「旅立ちの朝に/愛と死を語る往復書簡」(新潮文庫)などでも、「死」に関する深い洞察が語られているのは確かですが、死後の在り方とその経過、そして転生ということについて、明確なビジョンがないということは否めません。ホスピスや終末期医療に関しても、いくら千万言費やしたところで、「死」についての明確な認識を得るということなくしては、気休めの域を出ないのではないでしょうか。

もちろん、ホスピスや終末期医療に関するキリスト教的なアプローチには、深く感じ入るものはあるのですが、それがあまりに抽象的であるが故に、神秘学的なアプローチをした後では、そうした営為は半ば悲しみを伴わざるをえないのは確かです。

また、最近とみに有名になった「チベットの死者の書」なども死後の世界を描いてはいますが、非常に不十分なうえに、かなり不正確で疑問視せざるをえないと思われる部分もたくさんあります。シュタイナーの描く死後のビジョンをご理解いただいた後、比較していただくのも一興かと思ったりもします。

さて、ここではテキストに述べられているよりももっと詳しく死後に辿る「魂の領域」について、主に「神智学」(イザラ書房)をガイドにしながら見ていくことにしましょう。また、「魂の領域」を通過した後の、霊界の領域に関しては、次の節でご説明させていただきます。

先ほども述べましたように、人が死ぬと、肉体から、エーテル体、アストラル体、自我が離れます。死の直後には、エーテル体とアストラル体はまだ結びついていますが、しばらく経つとアストラル体はエーテル体から離れていきます。エーテル体は、記憶の担い手ですので、エーテル体と結びついている期間には、生まれてから死んだ時点までの人生を流れ去る記憶の光景として見ることになります。

臨死体験などを体験された方の体験はこの時期の体験と酷似しているようですがその場合は、まだ肉体とエーテル体が完全に離れてはいないのだと思われます。まだ「霊子線」が繋がっているということなのだと思います。(シュタイナーがそういう表現をしているわけではありませんが)

この時期はいわゆるお通夜の時期にあたります。なぜすぐに焼いたりしないでしばらくおいておく習慣があるかといいますと、もちろん死者との別れの時期というような意味もあるでしょうが、本来は、その時期には、物質体とエーテル体がまだ完全には切り離されてなくてそれを待つための時期を設けているのではないかと思われます。つまり、すぐに焼いたりしていまうのは、まだ「痛い」わけです。ということは、献体ということにおいても、同じことがいえるようです。「脳死」を人の死だとしてしまうということの問題がここにでてきます。もちろん、深い愛をもって献体しようというのは立派な行為ですが、自分の死後の状態をちゃんと理解してそうしていない場合は、非常な驚愕に襲われることになります。つまりは、生きたまま解剖されて臓器を切り離されるのと同じなのです。この問題は非常に重要ではありますが、ここではこれくらいにとどめておきます。

さて、シュタイナーの描く死後のプロセスを追っていきましょう。 

死後の魂は、もっぱら自分が霊的、魂的な世界の法則に従うことで霊に、物質存在への執着を一切絶つのに必要な一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束されていればいるほど、勿論この期間は延長される。物質的生活への依存度の少なかった人の場合は期間が短く、物質世界への関心が高く、死後もなお多くの欲望、願望等が魂の中に残っている人の場合は長く続く。(P117) 

人間は本来霊的な存在であって、この物質界で生活するために、「魂」は霊と物質をつないでいて、重要な働きをしているのですが、死後は、その成果の部分以外に関しては、速やかに魂的なものを霊的なものから切り離していかなければなりません。仏教で「執着はいけない」「煩悩を消しなさい」というのは、そうした在り方を強めすぎると、魂が解放されがたくなるということです。ですから、「反省」ということで、魂の純度を高める修行をするのです。

テキストでは、この時期を「感覚的情欲、欲望から遠ざかる」「欲界期」とし、みずからの全人生を逆の形でもう一度生きることになります。「他の人に対して与えた快や苦のすべてを自分の中で体験しなければ」なりません。

このことから考えると、わたしたちの人生のなかで、自分と関わった存在にどういうものを与えてきたかということが半ば戦慄をもって浮かび上がってこざるをえません。反省を余儀なくされてきますし、できればプラスのものを与えることを積極的におこなわざるをえなくなります。しかし、そういうことを意識的には理解しないでも、一生涯を通じて愛を与え続けてきた人の素晴らしさには頭が下がります。

上記の引用でもあるように、魂の世界を通過する仕方はひとそれぞれですが、その通過する魂の世界は次の7つの領域に分かれています。しかし、これらの領域は互いに切り離された領域なのではなくて、互いに浸透し合っていますので、そのように理解しておいてください。

1)燃える欲望の領域

2)流動的感応性の領域

3)願望の領域

4)快と不快の領域

5)魂の光の領域

6)魂の活動力の領域

7)魂の生命の領域 

最初の3つの領域では、魂の構成体の特質は共感と反感であり、第4の領域では共感であり、高次の3つの領域ではその共感の力が強まっていきます。

少し長くなりますが、これらの領域について、引用紹介していきましょう。 

1)燃える欲望の領域 

魂界のもっとも低い領域は燃える欲望の領域である。死後この領域を通過する間に、物質世界にかかわる粗野で利己的な欲望が消滅させられる。なぜならこの欲望をまだ捨て去ることができずにいる魂は、まさにこの欲望を通して、この領域に力の或る作用をまともに受けざるをえないからである。この作用の起点となるものは、物質生活への、まだ満たされぬままに残っている欲望である。 

死後の世界では、もはや肉体はなく、それに関係したいかなる欲望も、もはや満たすことはできないにも関わらず、それを欲するが故に、その渇望感というのはかなり壮絶なものがあるようです^^;。 

2)流動的感応性の領域 

共感と反感が均衡を保っているのが、魂界の第二領域の状態である。死後、これと同じ状態にある人間の魂は、この第二領域の作用を受ける。人生の外的事情に心を奪われたり、感覚の一時的な印象に喜びを求めたりすることがこの状態を作り出す。このような状態にある魂の要求から自由になれない人は、この領域の中に留まり続ける。このような人は日常の瑣事にいちいちこだわる。・・・完全に消滅するまで、魂を占めている欠乏感は勿論苦痛に充ちているが、このような苦しい状況こそ、人間が地上生活を送っていたときにとらわれていた幻想を打ち破るための道場なのである。(P120-121) 

3)願望の領域 

第三に、魂界の中には、共感と願望の支配する状況が観察される。魂は死後、願望の雰囲気をもつすべてのものを通して、この第三の領域の作用を受ける。この願望もまた成就させることが不可能なので、次第に消滅する。(P121) 

4)快と不快の領域 

魂界の第四領域である快と不快の領域は、魂に特別の試練を課す。肉体に宿っているとき、魂は体に関するすべての事柄に関与する。快と不快の働きは体と結びついている。・・・人間は、地上生活において、自分の身体を自分の自我と感じるのである。自己感情と呼ばれるものはこの事実に基づいている。・・この第四領域の作用はしたがって、肉体即自我の幻想を打破することにある。(P122)

この関係でいうと、自殺者というのは、非常な困難な状況に置かれるようです。肉体に関する感情が魂に残されたまま死を迎えるが故の苦悩です。 

5)魂の光の領域 

この段階では、他のものに対する共感がすでに重要な意味をもつ。この世の生活の中で低い欲求だけを満足させようとはせず、与えられた環境に対して喜びと愛情を感じることのできた魂は、この段階に親しみをもつことができる。たとえば自然に没入しようとする態度も、もしそれが感覚的性質のものであったら、たとえばこの段階で浄化を受けるだろう。しかし自然体験には、もっと高次の、霊的性格のものがある。・・・宗教活動を通して物質世界の向上を期待していた人々の魂も、この領域で浄化を受けることになる。その人々の憧憬の対象が地上の楽園だったのか、それとも天上の楽園だったのかはどちらでもよい。(P123-124) 

6)魂の活動力の領域 

利己的性格をもたなくても、行為の動機が感覚の満足にあるような事業欲は、この領域の中で浄化を受ける。・・・芸術的な人や面白いというだけの理由で学問研究に没頭している人の多くは、この部類に属する。(P124)

7)魂の生命の領域 

本来の魂の生活の領域である第七領域は、感覚的物質的世界への執着から最終的に人間を解放する。これまでどの領域も、魂の中にあるその領域と同質の部分を魂から取り上げてきた。最後に残された魂の部分は感覚的世界のためにすべてを捧げて働くべきだという考え方であって、これが霊を依然といて覆い包んでいるのである。非常に優れた人物の中にも、物質界の事象以外にことはあまり考慮しようとしない人がいる。そのような信念を唯物論信仰と呼ぶことができるだろう。この信念は打破されねばならない。そしてそれはこの第七領域において為される。・・・魂は今、彼本来の諸領域へ向かって飛翔する。それらの領域においてのみ、霊は自己本来の環境の中にいる、ということができるのである。 (p124-125) 

こうして人間は死後、肉体、エーテル死骸、アストラル死骸を脱ぎ捨て、ようやく本来の故郷である霊界へと歩みいることになります。その霊界に関しては、次の節で。 

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 

<III-3/霊界の領域>


 

では、「魂の世界」に続いて、「霊界」についてご説明させていただきます。テキストでは「神界」という表現になっていますが、「霊界」と同じ意味です。また、テキストでは「霊界(神界)」の低次領域である、第一領域〜第四領域までしか説明されていませんが、高次の領域である第五領域〜第七領域までふくめてご説明したいと思います。以下の引用は「神智学」(イザラ書房)からです。

人間は、死後から再生するまでのあいだに、前のアーティクルでご説明した「魂界」を経た後、「霊界」に至り、また生まれるまでの間をこの領域で過ごすことになります。この「霊界」に滞在することの意味を理解するためには、輪廻転生の意味を正しく理解する必要があります。

人間はこの地上で、「物質界の霊的存在」として活動を行ないますが、人間は霊界で意図したものを、物質界に刻印づけます。人間は死ぬ度に、霊界で生き、その法則に従ってそこでいわゆる設計図を仕上げます。そしてその設計図を具体化するため、物質の性質や力をこの世で学び、さまざまな創造活動を繰り広げながら、経験を蓄積します。この世というのは、まさにそういう意味での「学習の場」なのです。

さて、霊界の諸領域についてのご説明を始めることにします。 

●霊界の第一領域/

 ・物質界における「地」に対応する

 ・霊界の陸地 

最初の領域には物質界の中の無生物の原像が存在している。・・・この領域が「霊界」の土台をなしている。それは地球上の陸地と比較されうる「霊界」の大陸部分なのである。(P131-132)  

この世の生活においては、思考内容として捉えたこれらの原像の影だけを、人間は知ることができた。地上では考えられるだけのものが、この領域では体験されるものとなる。この領域で人間は思考内容の中を遍歴する。しかしその思考内容というのは現実の生きた存在なのである。(P139)  

人は自分の肉体を外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考えず、したがってそれを外形の他の事物から区別しようとはしなくなる。(P140)  

「霊界」のこの最下位の領域内で成果として実るものは、地上生活上のいわば日常的状況である。そしてこの日常的状況にもっぱら没頭してきた霊的部分は死から再生に至る霊界生活の主要期間中この領域に親近感を持ち続けるだろう。この世でともに生きてきた人々には霊界でも再会する。・・・死後、霊界の中においても、地上生活での魂と魂の係わりはすべて存続し続ける。(P142) 

●霊界の第二領域/

 ・物質界における「水」に対応する

 ・霊界の海と河川の領域 

「霊界」の第二領域には生命の原像が存在している。しかし生命はこの領域の中ではひとつの完全な統一体をなしている。それは液体成分として、霊界のいたるところに流れ込み、いわば血液のように脈打ちながら、あらゆるところにまで及んでいる。それは地球にとっての海が湖沼や河川のような部分であるともいえる。・・・思考内容を素材にした流動する生命、人は「霊界」のこの第二段階をそう名づけることができよう。この流動する生命という活動領域の中に、物質的現実の中で生命ある存在として現われるすべてのものの根源的想像力が存している。(P132-133)  

人間はここでは、地上で崇拝の対象だった統一性と本当にひとつになることができる。宗教生活やそれと関連したすべての事柄の成果がこの領域の中に現われてくる。人間は自分の霊的経験から、個人の運命と個人の属する共同体とを区別すべきでないと認識することを学ぶ。自分を全体の一員として認識する能力はこの領域で形成される。宗教的な諸感情、高貴な道徳を求める純粋な努力のすべては、霊界における中間状態の大半の時期に、力づけをこの領域から受け取るであろう。・・・第二の領域では、同じ崇拝対象、同じ信条等によってひとつに結ばれていると感じられたすべての魂たちの領域に入る。(P143-144)  

●霊界の第三領域/

 ・物質界における「風」に対応する

 ・霊界の大気圏 

「霊界」の第三領域としては、一切の魂あるものの原像が挙げられねばならない。・・・比喩的にそれを「霊界」の大気圏と名づけることができる。物質界や魂界で魂がいとなむすべては、この領域にその霊的対応物をもっている。一切の感情、本能、情念は霊的な在り方でこの領域内にもう一度現われる。この霊界の大気圏における気象状況は物質界、魂界での生物の苦しみと喜びに相応している。人間の憧れは微風のように現われる。激情の発作は暴風のようである。(P133)  

ここでは、人が地上で社会のため、隣人のために、没我的態度で奉仕したときの一切の行為が、実を結ぶのである。なぜならこのような奉仕によって人はすでにこの世で「霊界」の第三領域の残照の中に生きていたからである。人類の偉大な慈善家、献身的人物、共同体に大きな奉仕を為した人物は、かつて前世においてこの領域と特別な親和関係を作ったのちに、この領域でこのような行為のための能力を獲得した人々なのである。(p145) 

以上、霊界の第一領域〜第三領域までについてご説明してきましたが、魂をもっているものの原像である生きた思考存在は、この低次の霊界に存在しています。

いわゆる「純粋の霊界」は、次の第四領域からはじめります。しかし、その領域もまだ完全な意味でのそれではありません。

  

●霊界の第四領域/

 ・物質界における「火」に対応する

 ・第一〜第三領域を貫く原像の世界

第四領域の原像は物質界、魂界とは直接関係をもたない。この原像は或る点では、以下の三領域の原像を統率し、相互の連繋を可能にする本性たちである。したがって彼らは下位の三領域の原像に秩序を与え、組分けする仕事に従事している。(P133-134)  

この世で獲得した科学の成果、芸術の着想と形式、技術の思想はこの第四領域でその成果を実らせていたのである。それ故芸術家、学者、大発明家は「霊界」に滞在している間に、彼らの創造衝動をこの領域から受け取り、彼らの天分を高めたからこそ、ふたたび地上に生を受けたときに、人類文化の発展に一層寄与できるようになったのである。・・・地上の生活中に、日常的な生活、願望、意欲の領分を超えて人間が努力したものはすべて、その源泉をこの領域にもっている。もし人が死から再生に至る間にこの領域を通過しなかったとすれば、その後はもはや狭い個人的な生活空間を超えて、普遍的=人間的なものへ向かおうとする興味をもたなくなるであろう。(p146) 

さて、第五、第六、第七領域は、以上の下位の諸領域とは本質的に区別されますがそれは、そうした下位の領域の原像にその活動の原動力を提供するものです。つまり、原像の創造力そのものが、こうした高次の諸領域に存在しているわけです。この領域にまで至ると、わたしたちの世界の根底にある「意図」とでもいるものを知ることができるといいます。霊界が地上での生活のためにつくった目標や意図の真の意味を体験することができるというのです。ここには、思考存在の複雑な原像が「生きた胚種」として存在していて、その胚種が下位の諸領域に移されることによって、それが多様な形態を示すようになります。

この高次の霊界こそが「純粋の霊界」と呼ぶことができ、ここではどんな地上的な束縛からも自由であるといえます。 

●霊界の第五領域 

「霊界」における霊としての本来の人間の姿は、死と新生の中間状態にある人間が「霊界」の第五領域にまで上昇したとき、はじめて現われる。この領域での人間こそが本来の自我の真の姿である。・・・常に新たにこの世に出生してくるこの同じ自我は、生まれる前に必ず、「霊界」の下位の諸領域で獲得した能力を伴って現われ、それによって前世で得た成果を次の人生の中へ持ち込む。自我はこれまでの転生の諸成果の担い手なのである。したがって「霊界」の第五領域を生きる自我は意図と目標の王国にいる。・・明らかに、自我がこの領域から汲み取れる力は、自我が意図の世界の中に持ち込むにふさわしい成果を、生前どれほど獲得することができかたかによって決まる。(P147-148)  

●霊界の第六領域 

「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在のもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら彼は自分のためになるものではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものだけを求めるのだから。(P150)  

●霊界の第七領域  

「霊界」の第七領域は人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中で、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向かい合う。こうして三つの世界の果てに立つ人間は、それとともに自分自身の生命核を認識する。その結果、三つの世界の謎が解決され、彼はこれらの世界のすべてのいとなみを見通す。(P150) 

以上、霊界の七つの領域についてご説明してきました。これを超える世界に関しては、よくわかりませんが、霊界の第五〜第六領域という純粋な霊界で「種」としてあったものが、第四領域という統括領域を通して、第一〜第三領域で、「原像」として、つまり「ネガ」として準備されたものが、物質体、エーテル体、アストラル体として現像されるというイメージでしょうか。(当然のごとく不案内な領域なので???の部分ばかりではありますが)

この第三章では、目覚め、眠り、夢という人間の意識の状態ということからはじまって、さらに、「死」のテーマに入りました。そして、死後、人間がどういう経過を辿っていくのかをこの世との係わりのなかで見てきました。

次の第4章と第5章では、魂界、霊界を通って、またふたたび生まれてくる過程を見てみることにします。


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