●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-1/アカシャ年代記>


 

前章では人が死んでからどうなるのかなどを見てみました。この章と次の章では、死後通過する領域からまた生まれてくるまでを見ていきますがその前に、霊界で出会う「アカシャ年代記」についてふれられていますので、この節ではそれについて少しご紹介することにします。

「アカシャ年代記」(「アカシック・レコード」)には、霊界(神界)で出会うといっても、それはもっと高次の領域で生じるといいます。あくまでも霊界(神界)でそれが見えはじめるということです。では、テキストから「アカシャ年代記」について見てみましょう。 

「アカシャ年代記」とはいったい何なのでしょう。地球上、あるいは、その他の世界で起こったことはすべて、ある精妙な実体に永続的に刻印され、秘儀に参入した者はこの記録を見いだすのです。普通の年代記ではなく、生きた年代記ということができます。ある人が紀元一世紀に生きていたと仮定しましょう。この人が当時、考え、感じ、欲したこと、行動に移したことは消え去るのではなく、この精妙な実体の中に保存されます。霊視者は、この実体の中に保管されているものを見ることができます。歴史書に記されたもののようにではなく、この記録は自ら生じるものです。旅人が景色を見るように、私たちが行ったことをこの霊的な映像の中に見ることができるのです。この映像の中では意志や感情、思考も見ることができます。この映像が地上の人々を模写したものであるかのように思ってはなりません。そのようには見えません。簡単な例を挙げてみましょう。手を動かすとき、意志は手のすみずみにまで働きかけます。物質界では肉眼に映じることのないこの意志の力が「アカシャ年代記」の中では見えるのです。私たちの中で霊的に働き、物質の中に溢れ出るものを、霊の中に見ることができるのです。(P56-57) 

しかし、この記述の後でシュタイナーも指摘しているように、多くの場合、霊媒がこうした記録を「見」ようとすると、単なる「アストラル的反映」を見ることになるのであって、それをある人物が現在霊界で生き続けているものだと思ってしまわないように気をつけなければならないといいます。それはあくまでも「記録」であって、「生きた」ものではないのです。たとえば、ビデオテープに記録されたものを本人そのものだと勘違いするようなものなのです。ですから、世に多くの書物などを出されている多くの「霊媒」たちの情報はあまり参考にしないほうがいいのではないかと思われます。

「アカシャ年代記」に関しては、全編がそれを読んだ記録になっているシュタイナー「アーカーシャ年代記より」(人智学出版社&国書刊行会)がありますので、興味のある方はぜひ目を通されればと思います。人間の萌芽の時代からずっと現代までの宇宙誌ファンタジーが展開されています(^^)。もちろん、その内容のある部分は「薔薇十字会の神智学」でもとりあげられてますのでそれについてはいずれご説明できると思います。

さて、こうしたシュタイナーによる説明ほかに、神智学関係の書物を参照されるとけっこうそれについての詳細な説明が得られます。たとえば、「神智学大要」(たま出版)というのが全五巻ででていますが、アカシャの記録については、第三巻の「メンタル体」の中の、第28章「アーカーシャの記録」でとりあげられていますので、そのなかから少しご紹介してみることにします。 

アーカーシャの記録の現われ方は、いかなる状態の下でそれを観るかによってある程度違う。アストラル界層では普通は単純な映像として見え、時には人物像に動きが与えられる場合がある。その場合、それは単なる速写(スナップショット)ではなく、幾分が長めの、もっと完全な像となる。メンタル階層での現われ方には二つの面があり、両者の間にはかなりの差がある。

(1)観察者が記録について特に思索しているのでなければ、それは進行中の事柄の背景を成すだけにすぎない。その様な観察状態の下での記録は実は遥かに高い階層におけるある巨大なる意識の絶えざる働きの単なる反映にすぎず、映画の画面によく似ている。人物像なども絶えず動いていて、まるで遠い舞台の上で役者達が所作しているのを見ているようである。(2)メンタル階層は想念がなんらの拘束も受けない領域であるから、もし修行のできた人が何なの情景に特にその注意を向けるとその情景は直ちに彼の前に出現する。たとえばもし彼がジュリアス・シーザーの英国上陸が見たいと思うと、一瞬のうちに彼は、その情景を見るのではなく、実際に彼自身がその現場の海岸に古代ローマ軍とともに上陸している自分に気づく。その全情景は、西暦紀元前五五年に彼が現場にいれば目撃したであろうように、まさしくそのまま彼の廻りで再演される。もちろん演者たちは単なる反映にすぎないから彼などまったく意識しないし、また彼がやろうとしたところでこの演者たちの行動を変えることは全くできない。もっともこのドラマが目前で進行する速度を変えることはできる。したがって一年間にわたった出来事を一時間だけで目前に展開させることもできるし、いつなんどきでも動きを止めて思いのままの時間だけ特定の場景を釘付けにすることもできる。また現場に居合わせたら肉眼で見たはずのものを全部見るだけでなく、演出者たちの話していることまで聞こえるし理解もできる。そして彼らの思っていることもその動機もわかるのである。(P279-280)  

ここらへんのことは、非常にファンタジックで面白いのですが、これを自分の思いと行ないを照らす自省の材料として使ってみるのがまずは得策なのではないかと思います。

どんな人でも、生まれてから今までさまざまなことを思い、行なってきたわけですがそのすべてをだれに知られ、見られてもいいと胸を張って言えるひとは非常に稀なのではないでしょうか。しかし、そうしたすべてはその「アカシャ年代記」に細大漏らさず記録されていることを思えば、かなり複雑な気持ちになってしまうのはおそらくぼくだけではないでしょう^^;。それがすべて気持ちの奥底までが見すかされているなんて・・・。

ですから、自分のすべての思いと行ないが記録されていて隠せないと思えば、自分が果たして今、そしてこれから何をなすべきかが自ずと見えてくるはずです。「アカシャ年代記」を反省の一視点としてとらえるということをまずしっかり念頭に置くべきではないかという気がします。

  

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-2/再受肉への準備と死者の働きかけ>


前章では、死後、欲界、神界へ歩み行る過程について見てみましたが、それを踏まえながら、まずここではどのように再受肉が準備されるか、またどのようにそのための環境が準備されるか、そして死者はどのように地上に働きかけているのかを見てみることにします。  

地上の人間を観察してみましょう。何を通して人間の感覚器官、たとえば目は形成されたのでしょうか。かつて、人間には目がありませんでした。目は光によって形成されたのです。光は肉体組織から目をつくり出しました。光が目の存在する原因なのです。同じようにして、私たちの周囲に存在するものが物質界の器官を創造しました。地上で肉体や物質的素材の中に器官が作られます。神界では私たちの周囲にあるものが私たちの魂の実体に働きかけます。地上で抱いた善良な感情、邪悪な感情のすべてが、神界において自分の周囲に見出されます。そして、これらは魂に働きかけ、魂の器官を創造します。善良な人は神界の大気の中で穏やかに生きます。地上で善良に生きると、神界の大気の中に良好な特性が活動します。良好な特性は霊の中で働き、ある器官を創造します。この器官が人間が再び地上に受肉するときに、新たな肉体を構築する役目を果たします。人間の内面にあるものが神界では外界へと転地され、再受肉を準備します。体を新たに作り上げる力を準備するのです。(P60-61)  

ゲーテは、「色彩論」の「序論」に、有名な言葉を残しています。

もし眼が太陽のようでなかったら、

どうしてわれわれは光を見ることができるだろうか。

もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、

どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか。

              <ゲーテ全集14(潮出版社/p313)>  

目は光を知覚します。しかし、光がなければ目は存在しません。闇の中で過ごす生物は、見るための器官が形成されないか、または退化してしまいます。ですから、器官が知覚するもののなかに、その器官を形成する力が隠されているともいえます。

そういう意味で、人間の身体は、それによって知覚されるものの力で創造されたといえます。物質体は物質界の力で構築され、エーテル体はエーテル界の力で構築され、アストラル体はアストラル界の力で構築されているというのです。

そうした構築する力は、生前における内面が神界において外界となったものが、またふたたび再受肉のための力としてあらわれてくることになります。これは「カルマ」という問題とも密接に関係してくることなのですが、結局、誕生から死までの人生というのは、自分自身があらかじめ用意していたものだということができます。自らが用意しておいたさまざまな環境のなかで生きることで、かつての地上での生活の不完全さを清算し、より完全な人間となる可能性を得るということなわけです。

さて、死から再生の間の人間はいったい何をしているかということに話を移してみることにしましょう。  

いったい誰が地球の相貌を変化させているのでしょう。そして、死んでから再び生まれるまでの間、人間は何をしているのでしょう。−−霊的諸存在の指導のもとに、人間が霊界から地球の変容のために働きかけているのです。地表を変化させる仕事に従事しているのは、死と再受肉との間の期間にいる人間なのです。再び生まれると、以前とは異なった地上の様相を目にしますが、霊界に滞在している間、自分自身がこの地表の変容という仕事に協力したのです。すべての人間が、この仕事に携わってきました。(P62)  

神界、霊界はどこにあるのでしょうか。つねに私たちの周囲に存在しています。−−これは本当のことです。ですから、肉体を捨て去った人々の魂もすべて、私たちの周囲に存在しているのです。死者たちは私たちのまわりで存在しています。私たちが町を造り、機械を組み立てているとき、私たちをとりかこんでいる霊的世界から、死と再受肉の間にある人々が働きかけています。光を単に感覚的に知覚するだけでなく、霊視的に見れば、光の中に死者たちを見出すことができます。死者たちは光で織られた体を持っています。地球の周囲に注ぎかかる光が、神界に住む者たちの素材なのです。太陽の光を受けて成長する植物は、単に物質的な光を浴びているだけではなく、霊的存在、そして死者たちが光の中で植物に働きかけているのです。(P62-63)  

死と再受肉との間にある死者たちは神界で働いています。死者たちは活動を停止して安らいでいるのではなく、地球の発展に神界から創造的に働きかけているのです。この働きによって世界は生成されていきます。よくいわれるように死者たちは至福の内に安らぎ、夢の中に生きるのではなく、神界での生活は地上での生活と同じく活動的なのです。(PP64)  

人間は、死後、自分の新たな生を準備するだけではなく、誕生から死までの人生で地上を物質的に働きかける仕事をしているように、死から再受肉までの人生では、外界を霊的に創造する仕事をしているといえます。また、霊的世界から物質界に働きかけるだけではなく、物質的存在の活動もまた霊的世界に影響を及ぼしているということも重要な点です。

つまり、物質界において精神を通して築かれたものは霊的世界でも存続し、またそれは新たな生においても存続していくということです。誕生から死までにおこなわれたこと、そして死から再受肉までのおこなわれたことは繰り返されていくのです。

そういう意味でも、今、自分が何をなしているかということは、それを死後も、また再生の後も、繰り返すということでもありますから、自分がどうありたいかという理想があるならば、みずからのあり方を「今まさに」、その理想に近づけるようにする必要があるということになります。こうした考え方は、自らの優柔不断へのカンフル剤になります。「自分がどうありたいのか」というのは、即、「自分は今どういうあり方をしているのか」「どう行動するのか」ということなのです。だから、「こうしたいんだけどできない」というのは、「したくない」ということであって、言い訳はできないのです(ああ厳しい(^^;))。

また、自らの身体も環境もみずからがつくりだしたものなのですから、すべてを「自己責任」という原則でとらえるということも必要です。自分以外のせいにしている限りにおいて、自らを理想に近づける営為の反対のものであるといえるわけです。

不完全な自分を、ごまかしではなく真に完全なものに近づけていくために今の自分の「課題」というのは常に自分の前に立ちふさがっています。もちろん、それを「見ないふり」をすることはできませんが、自分の真我とでもいえる部分は決してそれを見逃すことはありません。 

さて、次回から、具体的に再受肉までのプロセスを見ていくことにします。

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-3/再受肉への過程> 

この節では、神界から再び再受肉へと向かうプロセスについて見てみることにします。 

神界から下っていくとき、最初に歩みいるのはアストラル界、薔薇十字会の神智学でいう元素界です。アストラル界は、地上へと下降していく人間に新しいアストラル体を付与します。鉄粉を紙の上に蒔き、下で磁石を動かすと、磁石の力に よって鉄粉は形や線を作ります。同じように、ばらばらに分散しているアストラル実体は、前世で魂が獲得したものに相応する魂の諸力に引きつけられ、形を整えられます。このように、人間は自ら自分のアストラル体を編成します。アストラル体のみを有した地上に下りつつある人間は、霊眼には、下方に開いた鐘のような形に見えます。人間は凄じい速さでアストラル界を通過していきます。

                                  (P64-65) 

要するに、死後少しずつ脱ぎ捨ててきたものと同類の新しいアストラル体を再びまとっていくわけです。死後脱ぎ捨てたアストラル体は元素界に還ってしまっていますので、それをまた身につけるというわけではありません。身にまとうアストラル体は、「前世で魂が獲得したものに相応」したものであり前世での魂の傾向性はそのまま継承されるということになります。温厚な人は温厚に、怒りっぽい人は怒りっぽく・・・という感じです(^^)。 

地上に下る人間は次にエーテル体と肉体を受け取らなくてはなりません。アストラル体の構築までは人間自らが発展させた力によっています。けれども、現代の進化段階では、エーテル体の形成は人間だけでなく、外的な存在に依存しています。ですから、私たちはつねに自分に適したアストラル体を有しているのですがつねにこのアストラル体がエーテル体と肉体に適合するとはかぎらないのです。 (P65)

このあたりがちょっと注意が必要なところです。アストラル体はほぼ再構成できるといえますが、エーテル体はそうではないのです。それは、再受肉するときの地上の状況にかなり左右されるわけです。 

受肉しようとする人間は、アストラル体に適するエーテル体と肉体を与えてくれる両親を探して徘徊します。完全に自分に適した両親というのは存在しません。このとき、アストラル体にエーテル体を組み入れる働きをする存在は、しばしば民族霊と呼ばれる存在に似ています。この存在は普通、民族精神として考えられるような理解しがたい抽象的なものではなく、世界を霊的に観察する人々にとっては、肉体に受肉した魂と同じように現実の存在なのです。たしかにある民族全体が一つの肉体をもっているわけではありませんが、一つの民族は一つのアストラル体、そして一つのエーテル体の性向を有しています。     (P65-66)  

「完全に自分に適した両親というのは存在しません」という部分もかなり重要です。両親は子どもに身体という覆いを与えはしますが、両親が完全に子どもに適した存在であるということはないわけです。しかし、子どもとして生まれるということは、自分を産んでもらうために、両親を結びつけるのだといいます。自分を産んでくれ〜という欲求で、両親を選ぶわけです。

遺伝ということについていえば、通常いわれているのは肉体上の遺伝であって、エーテル体の遺伝、アストラル体の遺伝などというふうにわけて考えたほうが適切です。人間が先祖から遺産として継承してきたのは、肉体とエーテル体です。アストラル体は、自らが自らを継承するため再構成したものだといえます。

さて、上記の引用で「民族霊」というのがでてきていまして、その存在が「アストラル体にエーテル体を組み入れる働きをする」とありますが、このことは、民族ごとに「気質」の強い傾向があるということや体質的にも強い傾向性があるということと重ね合わせて考えてみても面白いです。また、たとえば、食べものは、自分が生まれ育ったところの近くに産するものを食べたほうがいいとかいうのもそれに関係したことでもあるように思います。

ここで参考までに、シュタイナーのいう「故郷喪失者」について少しばかりとりあげてみることにします。「故郷喪失者」というのは、別に故郷を失って悲しいとかいうのではなくて、むしろ積極的な意味で「民族」の影響を脱しようとする神秘学徒のことです。 

故郷喪失者というのは、偉大な人類の法則を認識し、把握するときに、民族が生きる場所から発するものすべての影響を受けない人間のことです。故郷喪失者というのは、故郷から発する特定の感情や感覚のニュアンスを交えることなく、人類全体の偉大な使命を受け入れる人のことです。このことから、神秘的−神秘学的な進化のある段階において、自由な視点を持つ必要があることがおわかりいただけると思います。個々の民族精神の使命として、民族の土壌から、民族の精神から人類全体の使命に具体的に寄与するという偉大な行為に対しても、自由な観点を持つ必要があるのです。故郷喪失者は、そのような偉大な行為から自由にならねばならないのです。太古の時代から今日にいたるまで、いつの時代にも故郷喪失者はいます。彼らは、故郷喪失というあり方が人々からはごくわずかしか理解されないことを、いつも知っていました。故郷喪失者に対しては、次のように非難されました。「おまえたちは、民族の母なるなる大地との関連をすべて失った。おまえたちは、人間にとってもっとも大切なものを理解していない。」そうではありません。故郷喪失者というのは、ひとつのまわり道なのです。故郷喪失という聖地にいたったあとで、民族の本質に帰る道を見出し、人類進化において土着のものとの調和を見出すためのまわり道なのです。

  (シュタイナー「民族魂の使命」(イザラ書房)P13-14)  

つまり、民族を、民族の使命をよりよく理解するためには、それにどっぷりつかって自分が見えなくなってしまってはいけないということです。民族を理解する道も、また民族を超えたものを目指す道も、それは民族から自由な観点を持てなければ可能にならないというわけです。インターナショナルというのは、インター=ナショナルであるように、ナショナルとナショナルを相互化する視点によって、人間の未来の可能性を見出していかなければなりません。

そういう意味でも、日本を日本のなかだけで見るのではなく、日本から自由な観点を持つことによって、日本に帰る道を見出す。そのことが非常に重要になってきているように思うわけです。 

さて、テキストのほうを続けましょう。 

次に死後、自分の人生を記憶像として見たときと同じく、非常に重要な時期がやってきます。エーテル体に入りながら、まだ肉体とは結びついていない状態はごくわずかな期間ですが、非常に重要な期間です。この状態において、人間は来たるべき人生を前もって見るのです。個々の出来事すべてではなく、人生の全体的な概観を見るのです。そして、これから生きようとする人生が幸福なものか、不幸なものかを知ります。この来たるべき人生の予見は、肉体に入ったときに忘れ去られます。もし、前世で悲痛な体験を多くしていたなら、ショックを感じて、肉体への受肉を欲しないということも起こります。そうすると、実際、完全に肉体に入り込まずに、アストラル体、エーテル体、肉体の結びつきが十分行なわれないという事態が生じます。(P66)    

こうしたことは、「カルマ」ということと非常に密接に関係してくることです。もちろん、カルマだから仕方がないという視点は持つべきではありません。たとえば、シュタイナーは「教育」、特に「治療教育」に関して、それはカルマに深く関わっていくものだということを言っています。もちろん、神秘学そのものあり方も同じです。治療教育上の関わり方に関しては、邦訳では「治療教育講義」(角川書店)に詳しいのですが、その具体的な内容はここでは紹介できませんが、その態度に関して次のようなことが語られています。 

教育に関していえば、死と再生との間でなければ遂行できないような、カルマへの深い関わりを教育が行なうのだということを、私たちは知らねばなりません。障害のある子どもを教育するときには、未来における神々の作業を現在すでに行なうことになるのです。このことを理論として受け取るのではなく、心の中にしっかりと作用させるならば、私たちは常に、今、為さねばならぬ事柄を行なうのか、それともゆるがせにするのかの決断の前に立たされるでしょう。けれども次のことを忘れてはなりません。霊的衝動によるどんな歩みも、右にも左にも眼を向けながら、内的な勇気を持って新しい決断を行なうように促すのです。地上における通常の生活は、この内的勇気を持たずにも暮らせるようにしています。その生活の中では、慣れていることだけを行なっていればよいのです。そこでは自分の中にすでに在る基準だけを頼りに生きていけますから、新しい見方をする必要を感じないで済みます。物質世界でいとなまれる生活ならそれでいいのです。けれども霊的な衝動に促されて生きるときには、毎日、毎時間、決断の前に立たされていると感じないわけにはいきません。どんな行為も、それを行なうこともできるし、行なわないこともできるし、まったく中立な態度をとることもできるので、どの方向をえらんだらいいのか、その決断の前に立たされていると感じないわけにはいきません。そしてそのような決断の際には、まさに勇気が、内なる勇気が必要なのです。(P47) 

再受肉は、自分を完全な人間にしたいというやむにやまれに欲求から行なわれます。そして、それはそうした内なる勇気をもって人生を歩んでいけるときにのみその方向をみずからが自由に胸を張って進んでいるといるのではないでしょうか。ぼくは、神秘学からはそうした勇気を学びたいと願っているのです。 

(第四章終了)

 


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