●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<V-1/死後の生命・物質界への再受肉>

  


これまでふれてきたことともかなり重なりますが、この章の最初には、この地上世界だけで共同生活が行なわれているのではなく、高次の世界においても共同生活が行なわれているということが述べられています。地上で作られた人間関係は霊界でも継続されるというのです。それについてここではいくつかの例が挙げられています。「母と子」、「友情、仲間意識」といった例です。

まず、「母と子」ですが、「地上で作られるよりも遥かに密接で、遥かに強固な結びつきが存在する」といいます。 

母性愛は最初、動物的な性格を有した自然本能として生じます。子供が成長するにつれ、母親と子供との関係は道徳的、倫理的、精神的なものになっていきます。母と子がともに考えることを学び、共通の感情を有するようになると、自然な本能を後退していきます。自然本能は最も高い意味での母親と子供の愛の絆を与えるために存在するのです。相互の理解、真心からの愛へと発展していくものは、母か子のどちらかが先に亡くなって、後に残った者から切り離されたように見えるときでも、霊的な領域で継続しているのです。地上で作られた絆は、死によって物質的な結びつきが絶たれた後でも、いききとした密接なものでありつづけます。母と子はともにいます。ただ、動物的な、自然本能から脱しなくてはなりません。地上で、魂的感情、魂的思考としてある人からある人へと紡がれていくものは、霊的な領域において、地上に存在するような制限に妨げられることはありません。そのうえ、神界においては地上で形成された関係が目に見える形態を持つようになります。(P67-68) 

ぼくはどうも母性とかいう表現に対して苦手なところがあって、「アブジェクシオン」というような母性が子供を取り込んで食ってしまうようなそんなイメージのほうがピンとくることが多いのですが(^^;)、そうした個人的な傾向性は横に置いておくとしまして、確かに、母の愛を動物的なありかたをまず基盤としながら、それを母胎として発展していくものととらえたときに、その重要性をあらためて再認識する必要があるように思います。ただ、あくまでもその愛を高めていくということが前提となっていますので、高められない愛はそれなりに浄化される必要があるのは忘れてはいけないでしょうね。しかし、どうもぼくの個人的な今回の地上生というのは、家族や血縁とかいったことの関係性の度合いが希薄なようですので、「母と子」といわれてもまるでピンとこないのですが、こうしたことはそれぞれの人の傾向性によってさまざまななのだろうなと思います。 

続いて、「友情、仲間意識」について。 

魂的親和力から形成された友情、仲間意識は神界においても継続します。この関係から来世における社会的関係が発展していきます。地上で魂的な関係を結ぶことによって、神界のある形態に働きかけることになります。人から人へと愛の絆を架けることによって、神界の形態に働きかけるのです。このことを通して、私たちは地上にとって意味のあるものだけではなく、神界における関係を創造します。愛と友情を通して地上でなされる相互理解は霊界に神殿を建立するための礎石であり、この確信を抱いた者にとって、地上で結ばれた魂と魂の絆は永遠の生成の基盤となります。(P68-69) 

ここで重要なのは、「愛と友情を通して地上でなされる相互理解は霊界に神殿を建立するための礎石」であるということで、この地上で、愛や友情を高めるということがいかに大切なことかがわかります。つまり、この地上で行なったことによって、神界が形成され、またそれに基づいて来世の関係も決まってくるわけです。ですから、単に惰性で人とつき合ったり、なれ合ったりするのではなく、真の「魂的親和力」から形成された「愛と友情」を持ちたいものです。

さて、地上に受肉してくるときの話に移ります。

受肉するときに、母親と父親を選ぶわけですが、母親をどのようにして選び、父親をどのようにして選ぶのかを見てみましょう。 

人間は自らの性質を通してアストラル体を纏います。このアストラル体の中にあるものを通して、地上のある特定の存在への引力を持ちます。エーテル体を通して、民族、そして、広い意味での家族に引き寄せられます。自らのアストラル体を形成したのと同じような仕方で、母親に引き寄せられます。アストラル体の本質、実質、組織が、人間を母親に引き寄せるのです。自我は人間を父親に引き寄せます。自我は太古、魂が初めて神の内から地上の体の中へと下ったときに存在しはじめました。自我は数多くの輪廻転生を通して成長してきました。ある人の自我は、他の人の自我とははっきり異なったものです。自我は父親への引力を形成します。エーテル体は民族、家族へ、アストラル体はとくに母親に、自我は父親に人間を引きつけます。そして、自我、アストラル体、エーテル体全体が新たな受肉を意志して下っていきます。(P70)  

現代の進化期では自我は意志、感情衝動の要素を示しています。アストラル体の中には想像、思考の特性が存在しています。後者は母親を通して、前者は父親を通して遺伝されます。受肉しようとする個体は無意識の力を通して、肉体を与えてくれる両親を探し出します。(P71) 

「エーテル体は民族、家族へ、アストラル体はとくに母親に、自我は父親に人間を引きつけます。」ということで、そうした三つの観点から、トータルに両親を選ぶわけですが、当然、なかなか適切な両親が見つからない場合もあるわけですよね。転居したいが、なかなか思い通りの家が見つからない状態にも似ています(^^;)。

ここで、両親から何を受け継ぐかということを少しだけ見ていくことにしますと、父親からは、魂が外界に対してどういう興味を示すか、つまり、意志の衝動とでもいうあり方が遺伝され、また、母親からは、知的な活発さ、ファンタジー能力、イメージ形成能力など、つまり心魂や知性のあり方が遺伝されるといいます。

また、そうした受け継ぐものは男の子と女の子とでは異なっているようです。男の子は、父親から、人間と外界との交流に関するものを得、母親からは、精神生活のありよう全体を受け継ぐのに対し、女の子の場合、父親の外的に現われていた性格が、内面化して現われるといいます。 

母親の特性は息子において一段降下し、器官の能力となります。一方、父親の特性は娘において一段高められ、内面化され、心魂化されて現われます。

  (「シュタイナー教育の基本要素」(イザラ書房/P86) 

ここで少しだけ、遺伝を通して受け取るものと、本来の自分の精神との関係に関して示唆しておこうと思います。 

人間が地上に下降することについて、わたしたちは、つぎのようにいわねばなりません。「この人間存在は、二つの側から、地上存在にいたる。内的な存在は、精神的な高みから下ってくる。精神的、アストラル的な人間が高次の世界から下ってくる。世代から世代へ、祖先から祖先へと遺伝されていくものをとおして、人間のまわりに見える外的な覆いと、肉体の崩壊に対して戦うエーテル体に属するものの多くが組み込まれる。」人間が二つの側から形成されていることを洞察すると、その二つのうちのどちらかが優勢な状態にあるとどのようなことが生じるのか、とわたしたちは思います。人間がいくつかの特性しか精神の世界から持ってこなかったとしてみましょう。そうすると、アストラル体のなかにわずかしか豊かな内容が存在せず、エーテル的な覆いおよび物質的な覆いとして人間のまわりに組み込まれたものの作用が優勢になります。つまり、乏しい内容しか持ってこなかった人間は、祖先からの遺伝のなかにいることになります。人間が高みから携えてくる内容が豊かになればなるほど、祖先から子孫へと伝えられる遺伝による類似性は、個体的なものへと変化するように駆られます。精神宇宙からわずかなものしか携えてこなかった人間の場合、人種、血統、家族、身分などという外的なものが内面を圧倒します。そのような人は、民族や家族が有する性格の特徴を自分の特徴として有します。豊かな内容、意味深い内的な力をもって地上に下ってきた人は、はっきりとした輪郭をもった個体として現われます。その個性も、確かに祖先から子孫に伝えられるものから発してはいるのですが、個体の精神的進化の結果である個々の特徴に対して、遺伝による類似性は退いています。(「シュタイナー教育の基本要素」(イザラ書房/P118-119) 

さて、このアーティクルの最後に、再受肉と受胎の関係についてテキストから見てみましょう。  

今お話しましたことは、本質的に受胎後三週間前までに完了されます。自我、アストラル体、エーテル体から成る人間は受胎の瞬間から母親のそばにいるのですが、外から胎児に働きかけているのです。受胎後、約三週間後にアストラル体とエーテル体は同時に胎児に結びつき、活動を始めます。この時点までは、胎児はアストラル体、エーテル体の影響なしに成長します。この時点以降、アストラル体とエーテル体は胎児の成長に作用することになります。それゆえ、エーテル体が自分に適合しない以上に、肉体は自分と調和しないのです。(P71) 

この「受胎後三週間」というのは、ぼくの考えでは、必ずしもそうともいいきれなくて、約3カ月間という説のほうが適切のように思うのですが、どちらにしても、受胎してすぐに、「受肉」とはいえないわけです。そして、その「受肉」して後に、いわゆる「堕胎」をすると、その魂はそれなりの傷を受けることになるといいます。また、受肉の程度が進めば進むほど、次第にその魂はバブバブ・・・となってきます。ですから、胎教のような視点は、見直す必要があるんじゃないかなとぼくは思っているのですが・・・。

 

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<V-2/転生のスパン・共同のカルマ>


この章の後半部分では、通常の方の転生ではなく、導師とでもいうべき秘儀参入者などの極めて用意周到に準備された転生に関してまず説明されています。 

霊的に高まれば高まるほど、地上で果たすべき使命にふさわしい肉体を作るための働きかけを始める時期は早くなります。肉体の萌芽に対する働きかけが遅れると、それだけ肉体に対する支配力が弱くなります。地球の霊的部分の指導者、導師となる最高度に進化した人々は、肉体に対する働きかけを受胎の瞬間に開始します。このような人々の場合、何事も自分の関与なしし進行することはありません。(P71-72) 

導師的な役割をもってこの地上に生まれてくる存在は、その役割を遂行するために、それなりに準備された身体が必要となります。そういう意味では、その役割そのものがその人の生だということもできます。つまり、そういう方は、そうした供儀そのものとして生まれてくるということです。それに対して、通常の方は、それなりにアバウトに(^^;)生まれてきて、それなりに自分のエゴを行使していくということになります。 

働きかけは、もちろん肉体に対してだけではなく、アストラル体やエーテル体などに対しても行なわれ、その役割に応じて、どういう身体を纏うかということが検討されるようです。

その典型的な例が、イエス・キリストです。そのイエス・キリストの秘密に関しては、「第五福音書」(イザラ書房)に詳しく述べられています。ここでは長くなりますので、あえてふれないことにします。  

普通の人間が生まれて死ぬまでの間に無意識になすことを、秘儀参入者は死んでから再び地上に生まれるまでの間、意識的に行ないます。秘儀参入者は新たな肉体を意識的に作り上げます。・・・あまり進化していない人は生まれ変わるごとにまったく容姿が変わるのに対し、秘儀参入者の場合、どの転生においても容姿が非常に似たものになります。進化すればするほど、相次ぐ地上での人生は似た形をとります。(P72)  

自分の前世の姿を見れば、自分の進化度合いがわかるということですよね。それは死んだ後の楽しみにとっておきましょう。  

神秘学は、人間は平均して千年から千三百年に一度、地上に受肉することを明らかにしています。再受肉したときに地表が変化していて、新しいことを体験しうるには千年から千三百年を要するのです。(P73) 

このあたりは、シュタイナー以外の諸資料からいうと、必ずしもそういうことはいえないようです(^^;)。シュタイナー自身も、人智学者が世紀末に多く転生するとか言っているようにそれを杓子定規に言っているわけではなさそうです。

たとえば、「神智学大要1」(たま出版)によれば、「死から再生までの平均期間」は次のように記述されています。極悪人/5年、野蛮人/40年/職人200年/農夫300年/商人500年/医師1000年/理想家1200年/弟子2300年この分類はあまり適切であるとはいえませんが(^^;)、いわんとすることはご理解いただけるものと思います。 

古代の諸民族はこのように、天空に生じていることと地上での変化との符号を明瞭に意識していました。太陽が星座を移ると地表は変化し、人間が新たな人生を送る価値のあるものになります。ですから、輪廻転生の時期は春分点の移動と関連するのです。太陽が一つの星座を通過するのに要する期間の間に、人間は二度、一度は男として、もう一度は女として受肉します。男性として得る経験と女性として得る体験とは精神生活にとって根本的に異なるものなので、同じ地表の姿のもとに、一度は女性として、一度は男性として生まれるのです。受肉から再受肉までの期間は、およそ千年から千三百年です。このことから、性別についての疑問に対する答えが得られます。規則的に男性、女性の双方を生きていくのです。この規則はしばしば破られ、時として三回から五回、同じ性を生きることがありますが、七回以上同じ性を生きることは決してありません。七回同じ性を生きるのは、霊的な規則に矛盾します。(P74-75) 

この男女という問題に関しても、おそらくは「霊的な規則に矛盾」したケースもあるように思います(^^;)が、一応の原則として、男にも女にも転生すると思ってよさそうです。

ちなみに、当時、シュタイナーが講演で男にも女にも生まれ変わることを言うとかなりの拒否反応が男性からあがったようです。ま、当時は、フロイトなんかがやっとこさ世に出た時代でもありますから、そういう反応も仕方なかったのかなと思うのですが、今の世でも、そういうことにはある程度は抵抗感を感じる方も多いようです。両方に生まれ変わったほうが、ずっと面白いのにね(^^)。

さて、次章では「運命」を扱い、続いて「カルマ」を扱っていくことになりますがそこで扱われる個人としてのカルマをみていく前に、テキストでは、「個人によっては決定されない共同のカルマ」の具体例が挙げられています。ここで重要なことは、次のことです。 

ただ、全体的なカルマを改善することによってのみ、個々人をも救うことができるのです。個々の利己的な自己を高めるのではなく、私たちは人類全体の救済に従事したいと思います。(P76) 

仏教では、共同のカルマのことを共業(ぐうごう)とか言うようですが、カルマには、個人的なカルマだけではなく、共同で担っているカルマもあります。ですから、それに関しては、個人のみでは解決できないわけです。そういう意味で、自分のあり方と同時に、自分の生きているさまざまな環境に関しても、目を開いていく必要があります。

この節の最初に、役割をもって地上に生まれてくる導師の話がでましたが、そういう意味では、そういう方は、大きな意味での「共同のカルマ」を解消すべく働きかけるために生まれてくるということがいえそうです。その典型的な例が、仏陀でありキリストだったわけです。

さて、テキストには、日本に関係した次のような興味深い例も挙げられていますので、この節の最後にそれを紹介しておくことにします。 

1904年から5年にかけての日露戦争にアストラル的諸存在が存在したのですが、その中にはロシアの死者たちもいて、彼らはロシア民族に対して戦ったということが霊的な観察から明らかになります。ごく最近のロシアの歴史の中で、多くの高潔な理想主義者たちが牢獄や断頭台で命を失いました。彼らは立派な理想主義者でしたが、自分たちを処刑した者たちを赦すことができませんでした。彼らは自分たちを殺した者たちに対する猛烈な復讐心を持って死にました。このような復讐心は、欲界期においてのみ存在することができます。死後、彼らはアストラル界から日本の兵士の魂に、ロシア民族に対する憎しみと復讐心を浸透させました。神界に至ったとき初めて、彼らは自分の敵たちを赦すことができるのです。・・・霊的な探求は、いかに民族全体が祖先の影響下にあるかを明らかにしています。(P76-77) 

この講演は、1907年に行なわれたもので、まさにその当時の社会情勢について、霊的に説明していたわけです。

こうした「民族全体が祖先の影響下にある」ということは、悲しいことではありますが、霊的な現実でもあるといえます。ですから、その民族として生まれるということは、少なからずその影響を受けざるを得ないということになります。 

この日本という磁場においても、古代以来、さまざまな歴史的、霊的闘争がありそうしたことの累積によって現在の日本という磁場ができあがっています。今、この日本において、古代に封印された力が封印をとかれ、その力が甦ろうとしているようですが、それについても、単なる外的現実だけではなく、霊的現実として、受けとめる必要がありそうです。

さて、この章の最後には次のように語られています。  

近代への理想への努力は、物質界にある物質的な手段のみをもってなされて いるので、理想に達することがありません。・・・アストラル界にも働きかけることを学んだとき初めて、どのような手段が正しいのかを知ることができます。霊界を認識することによって初めて、新たに生まれてくる人間が世界の中で有益に働けるように準備することができるのです。(P77) 

「理想」を「物質界にある物質的な手段」だけで獲得することはできません。霊的現実ということをふくめた総合的な視野がどうしても必要となってきます。もちろん、「物質界にある物質的な手段」を否定してはいけませんが、それだけしか目に入らないと、そこには恐ろしい陥穽が待ちかまえています。

シュタイナーの神秘学を学ぶということは真の現実を認識し、理想へとアプローチするための重要な手助けになると思うのです。

 

(第5章了)


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