●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-1/運命1>

 


この第6章と次の第7章では、「カルマ」の問題が扱われています。シュタイナーのカルマに関するまとまった講義録としては、イザラ書房から、「カルマ論集成」ということで、以下のものが翻訳されています。

・1「いかにして前世を認識するか」

・2「カルマの開示」

・3「カルマの形成」

・4「歴史のなかのカルマ的関連」

・5「宇宙のカルマ」 

さて、本章では、「普遍的な宇宙法則」であるカルマの法則の特殊な場合としての「人間の真実の運命の法則」について概観してあります。 

人間は過去を通して未来を規定します。人間の最も内なる実体は一回の受肉の中に閉じこめられているのではなく、多くの輪廻転生を貫いて生きていくものなので、ある人生において出会う事象の原因は前世の中に探さなくてはなりません。(テキストP79)  

人間の運命の法則というのは、過去−現在−未来ということを射程においた原因−結果の法則であるということです。物理的な原因−結果を扱うのが現在、科学といわれている学問ですが、カルマの法則というのは、そうした狭義の原因−結果の法則ではなく、過去−現在−未来における多次元的な原因−結果の法則なのです。

まず、テキストでは、唯物論的な因果関係を越えたビジョンが必要な発想が、次のように分かりやすく説明されています。

誰かに石を投げつけると、石を投げつけられた人は痛みを感じるが、誰かに対して抱く憎しみに満ちた考えは相手に痛みを感じさせない、と唯物論者は信じています。けれども、真に世界を認識している人は、憎しみに満ちた思考が石を投げることよりもずっと強大な作用を生み出すことを知っています。人間が考え感じることはすべてアストラル界に作用を及ぼします。どのように愛に満ちた思考が作用し、また、どのように憎しみに満ちた思考がまったく異なった作用を生み出すかを正確に霊視することができます。愛に満ちた思考を放つとその思考は萼のような形の光になってエーテル体とアストラル体の上に愛情のこもった仕方で漂い、活気と祝福を与えます。憎しみのこもった思考は矢のようにエーテル体とアストラル体に突き刺さり、傷つけます。(P80)  

世界は、単に物質的に作用しあっているだけではないことは、きわめてあたりまえのことなのですが、現代ではそのあたりまえのことがあたりまえでなくなっています。ちょっと変な例になりますが、人を呪うというような行為は、物理的な危害を加えるわけではないので、現代では犯罪にはなりませんが、これはほんとうはすごい犯罪なのです。

「思い」というのは、その程度はどうあれ伝わります。平安時代などでは、夢を見るということひとつとっても、だれかの思いの伝達だと考えられていたようですし、源氏物語にもでてくるように「生き霊」だとかいうのも現実のもののようでした。そしてそれはある意味ではほんとうのことなのです。その「思い」が非常に強く作用するものを「念」といい、念力だとか念動力だとかいう言葉がありますが、「思い」が通常考えられる物理的な作用を越えて作用するという視点が必要です。

「生き霊」というのは、マイナスに作用した場合、けっこう恐ろしいもので、原因不明の病気だとか不幸だとかいうのが襲う場合の原因であることも多いようです。しかし、「人を呪わば穴二つ」という言葉がありますが、「念」は発した本人にもそれなりの影響を及ぼしますから、できれば、日々、心穏やかにして、マイナスの思いを出さないようにするのがいいようです。少なくとも、自分のエゴに発する感情の波立ちは避けたほうがいいようですね。

でもって、もし誰かに「呪い」をかけられたときにはどうすればいいかというと、儀式的には、それを相手に返すような方法があるようですが、それはそれとしていちばん大切なことは、その「呪い」の受け皿にならないということが必要ではないかと思います。多くの場合、その「呪い」の受け皿になるのは、自分の執着の部分ですから、そのいってみれば「弱い部分」を鍛えて「鏡」にすることで、それを反射するという発想です。たとえば、お釈迦さんの話に、お釈迦さんに向けられた攻撃の矢がお釈迦さんに届くときには、それがことごとく花に変わるというのがありますが、そこまでいかなくとも、攻撃をかわすかそれを弱めるためには、それを受ける執着としての自分というのを少なくしておくという発想が必要です。

なんだか、話がそれて変な方向にいきましたので(^^;)、話を戻して、人間の考え、感じることがアストラル界に作用するということについてさらに、テキストから見ていくことにしましょう。 

真実を語るか、嘘をつくかでアストラル界に生じる現象には大きな差異があります。思考は何らかの事象に関連し、その事象と一致することによって真実のものとなります。どこかで何らかの出来事が生じると、この出来事から高次の世界に一つの作用が及びます。誰かがこの出来事をありのままに語りますと、その出来事自体から発する形象に一致するアストラル的な形象が語り手から輝き出、この二つの形象は互いに強め合います。強められた形象は霊界をより有機的に、内実豊かなものにします。このことが人類の進化にとっては必要なのです。出来事に一致しない虚偽を語りますと、語り手から発した思考の形象は事実から発した形象と反発しあい、相互的な破壊作用が生じます。虚言から生じるこの爆発のような破壊作用は、あたかも潰瘍のごとく、有機体を破壊してしまいます。虚言はすでに発生したアストラル的な形象、これから発生すべき形象を殺し、人類の進化を阻止するのです。実際、真実を語る者は人類の進化に奉仕し、虚偽を語る者は進化を妨げています。それゆえ、霊的に見れば虚言は殺人行為であるという神秘学的法則が存します。虚言はアストラル的な形象を殺すだけでなく、自殺行為でもあります。嘘をつく者は自分の人生を疎外することになるのです。霊界のいたるところにこのような作用が見られます。霊視者は人間が考え、感じたことがアストラル界に影響を及ぼすのを見ます。

                               (P80-81) 

なかなか恐ろしい神秘学的法則でしょう(^^;)。先の「思い」「念」「呪い」だとかいうことに関しても、上記の引用から類推していくと、いろんなことがわかってきます。

さて、この章では最初に述べたように、人間の運命の法則について見ていくのですがまず最初は、そのことの前提として、唯物論的な見方を越えた視点が必要だということについて見てみました。

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-2/運命2> 

さて、前節では、人間は物質的なレベルでの影響関係だけではなく、それを越えたさまざまな影響関係のもとにあるということを認識しなければ、「運命」ということをとらえることができないということについてお話しましたが、ここでは、その「運命」というのがどのように形成されるのかについて概観してみたいと思います。

まず、カルマ的連関の基本的な法則について整理しておきましょう。  

歩いたり、手を動かしたりすることから、家を建てるような複雑な行為に至るまで、物質界で行なわれたことすべて、物質界の事象すべてが現実の物質的作用としてその行為をなした人に近づいてきます。私たちは内から外へと生きているのです。アストラル体の中に喜び、痛み、苦しさとして生きているものはエーテル体の中に現われ、永続的な衝動、情熱としてエーテル体に根づいたものは肉体の中に体質として現われます。そして、物質界で肉体を用いてなしたことは外的な運命として来世に現われます。アストラル体のなしたことはエーテル体の運命となり、エーテル体のなすことは肉体の運命になり、肉体が行なったことは来世において外部から物質的現実として行為者に返ってきます。(P85-86) 

このように、前世でのアストラル体のあり方が現世のエーテル体のあり方を規定し、前世でのエーテル体のあり方が現世の肉体のあり方を規定し、前世の肉体のあり方(その行為)が元性の物質的現実、環境を規定する、というのが人間の基本的なカルマ的連関です。

この基本的な法則性を理解すれば、今の自分のあり方が、どのような前世に基づくものかについても理解できますし、また、来世の自分のあり方を方向づけるためには、今世ではどのようなあり方をしなければならないかが明確なものとなります。

人間の運命の法則を理解するということは、今を嘆くためではなく(^^;)、現状を深く認識するとともに、まさに自分の運命をみずからが形成するための明確な指針を持つということに他なりません。つまり、「宿命」的な運命観を持つのではなく、「立命」的な運命観を持つということが重要だということです。

こうした基本的な法則を少し具体的に見ていくことにしましょう。 

私たちの内面にとくに触れることなく、外界で体験したことはすべて、次の受肉に際して、私たちのアストラル体に作用し、その体験に適った感情、知覚、思考の特性を引き寄せます。善良な人生を送り、多くのことを観照し、豊かな認識を得ると、来世においてこのような特別の天賦を与えられたアストラル体を得ることになります。体験と経験は来世において、アストラル体に刻印されます。人間が知覚し、感じたもの、快と苦、魂の内的体験は再受肉に際してエーテル体にまで作用し、永続的な性向を生み出します。多くの喜びを体験した人のエーテル体は、喜びに向かう気質を有するようになります。善行を果たすことに尽力をした人は、その際に発展させた感情を通して、来世で善行の刻印された才能を持つことになります。そして、入念に発達した良心を持ち、道徳的な人物になります。(P82-83)

自分が望む感情、知覚、思考の傾向性がなかなか難しいとしたら、それは、前世においてそれを養成するだけの体験、経験を欠いているということですよね^^;。豊かな感情や繊細な知覚、着実で綿密な思考態度がとれるというのは、それなりの体験、経験に裏打ちされているということですから、ちょっとスパンは長いですが^^;、ちゃんとがんばればそれなりの魂の態度がとれるようになるということですよね。また、良心に欠ける行動、道徳性に悖ることをしがちな方というのは、前世では、それを用意するだけの感情、知覚、思考の傾向性があったということになります。

しかし、こういうのって善循環か悪循環のどちらかという気がしないでもないですが^^;もし悪循環に自分がいると気づいたら、どこかでその循環を断ち切らなければなりません。そのためにも、こうした神秘学的なビジョンは気づきのきっかけになります。ぼくなども、こうしたビジョンのおかげで、マイナス思考の危険性を悟り、ほんの少しではありますが、プラス思考を日々心がけるようになっています(^^)。 

現世においてエーテル体に担われているもの、継続的な性格、素質等は、来世において肉体の中に現われます。邪悪な傾向や情欲を発展させた人は来世で、不健康な肉体を持って生まれます。健康に恵まれ、忍耐力のある人は前世で善良な特性を発達させてきました。病気がちの人は邪悪な衝動を培ってきたのです。肉体的素質におけるかぎりの健康、病気はみずからつくり出したものなのです。邪悪な性向を滅却し、来世のための良好で健全な体を用意しなければなりません。(P83)  

こうやってみてくると、人間ってほんとうに平等だなあと思います。こういうのをまさに「神の前の平等」というんですよね。

しかし、気をつけなければならないのは、こうしたカルマの法則を、人を非難、批判する道具にしてはならないということです。こうしたビジョンは、あくまでも自己認識のためにあるということを忘れないようにしなければなりません。そうでないと、宗教団体などでよくある「脅し、すかし」の手段に堕してしまいます。

自己認識として必要なのは次のような観点です。 

大勢の人が苦痛と苦悩を嘆いています。高次の視点から見れば、苦痛や苦悩を克服することで、来世においてこの苦痛と苦悩が、叡智と思慮と洞見の源泉となるのですから、嘆くのは正しくないのです。・・・人生の苦悩から逃避し、苦痛に耐えようとしない人は、決して叡智の基盤を創造することができません。事象を深く洞察すれば、病気を嘆くことはできなくなります。より高い見地から、永遠の観点から観察すると、すべてはまったく別の様相を呈してきます。(P84-85)  

ただ気をつけなければならないのは、苦痛や苦悩は、あくまでも、それを克服することによって叡智と思慮と洞見の源泉となるのであって、苦痛や苦悩があるだけで、それが「カルマが解消された」とか、それが叡智と思慮と洞見の種になるとか思いこんではならないということです。某宗教団体で、そうした苦痛や苦悩をカルマの消えてゆく姿だと説いているようなそんな非常に危険な考え方をしているところがありますが、とんでもないことです。それを静かに耐えるということにしても、それはパッシブであってはならず、あくまでもアクティブなものでなければならないからです。

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-3/運命3>


さて、運命についてさらに続けましょう。

先の説でもご紹介したように、運命は人の一生だけではとらえられません。「与えたものが返ってくる」といっても、物質と物質の相互作用のようなあり方では運命の作用はとらえられないわけです。しかし、輪廻転生を正しくとらえるならば、「与えたもの」は、転生の過程で、必ず「返って」きますし、そういう状況を自らが選択していくことがわかるといいます。 

往々にして、運命の作用は長い間返ってきませんが、必ず返ってくるものなのです。ある人の輪廻転生の経過を辿っていくと、その人が肉体を纏うときに、ある存在が運命に邂逅できる特定の場所へとその人を運んでいくのが見えます。(P86) 

ですから、今、私の与えられている「特定の場所」というのは、そして、そこで邂逅する「運命」というのは、みずからの切実な願いによって選択されたものなわけです。

ちょうど今、「プレアデス+地球をひらく鍵」(コスモテン)を読んでいるのですが、その第10章「天界は語る」にも、次のように述べられています。 

あなたはこの現実に生まれてくる前に、ある瞬間、すなわちあなたが生まれてくる瞬間を申し込みました。あなたが生まれたその瞬間、星、惑星、月、太陽はある特定の位置関係にありました。あなたがお母さんの子宮からあらわれたとき、星や惑星から送られてきたエネルギーがあなたの肉体に刻印をしるしました。・・・この人生で理想的な体験をするために、生まれる瞬間と、家柄と血統を、ほかならぬあなたが選んだのです。あなたが何を学ぶ必要があるかに応じて、あなたがすでに創造したものと、創造するであろうものと、さらに他の場所で同時に創造しているものにもとづいて、これらの体験をするという決定をあなたがくだしたのです。(P273-274)  

占星術や四柱推命といった占術の多くは、そうした自らが選択した運命の構図を解明しようとしているものだといえます。

しかし、その「運命」を「宿命」としてとらえることは避けなければなりません。このことはこれまでにも何度も行ってきたましたが、「運命」は、「立命」としてとらえることによってはじめてその意味を明らかにするからです。運命の構図というのは、自分が学ぶに最適の踏み台なのであって、その踏み台のいうとおりにして、踏み台の踏み台になってしまうためのものでは決してないのだということを認識しておかなければならないのです。

その「立命」ということに関しては、安岡正篤さんの人間学的な洞察が有名です。それに関しては、とくに、いかにして人生を立命となすかという極意を説いた「陰隲録(いんしつろく)」についての講義は必読です(^^)。「陰隲録」というのは、明末の袁了凡という学者が息子の袁天啓に書き与えたもので人間は、運命や宿命を、自らの努力によって「立命」に転換できるという内容です。そのストーリーの部分は今回は省略させていただいて、

その結論部分を安岡正篤「立命の書『陰隲録』を読む」(致知出版社)から少し。 

書経に「天というものは当てにできないものだ、天明というのものは変化して常ならぬものだ」というておる。天というのものは限りない創造・造化でありますから、人間の注文通りこうすればこうなるというわけには参りません。浅はかな人間の知恵や欲望ではどうなるものではない。だから人間から見れば、天ほど信じ難いものはないわけです。また同じく書経に「一切は命である。したがって常ということがない。行のいかんによって変化するものだ」というておる。共にわれわれをたぶらかそうとするようないい加減な言葉ではない。自分はここにおいて、禍福はみな自分より求めないものはない、というのは本当に聖人や賢者の真実の言葉であって、禍福は人間の力ではどうすることもできぬ天の命ずる所である、というのは世の俗人の論であるということを知ったのである。

つまり、天明や運命というものは人間にとってどにもならぬものではないということです。創造・変化・造化という天の厳粛な理法に従って行じておれば、自ずからその理法に従うところの当然の、必然の結果を得るのである。それは人の知恵や欲望を超越したものである。とまあ、了凡は正しい悟りにはいったわけであります。(P91-92)  

シュタイナーの運命についての考え方、「カルマ論」の視点というのは、まさにこの「立命」の考え方が基盤にあるように思われます。そして、上記の安岡さんの引用にもあるように、  「創造・変化・造化という天の厳粛な理法に従って行じ」るために、単にやみくもな修行というのではなく、神秘学的な観点から、自分が今なにをしているのか、しようとしているのかをビジョン化しながら、自分の向かっている方向を理解し、確信をもって歩むためのものです。

では、テキストに戻りましょう。

人間は自分の知らない力に人生を導かれている、ということを明確にしておく必要があります。エーテル体に作用するのは、かつてアストラル界で自らが作り出した形態、形象です。運命に作用するのは高次の神界の、「アカシャ年代記」に自ら記入した力、実体です。神秘学者はこの力、実体をいくつかの位階に分類しています。アストラル体と同様に、エーテル体、肉体にも他の実体の作用が認められます。心ならずも行なってしまうこと、行為を促されるようなことは、他の存在の作用によって喚起されているのです。何もないところから行為が惹起されるのではありません。人間の諸構成要素は、絶えまなく他の存在に貫かれ、浸透されています。               (P87-88)

自分の運命に影響を与えている諸存在について認識することなくして、「立命」ということは困難であると思われます。もちろん、その影響関係も、その根源は自らの蒔いた種でもあるのですが、そうしたみずからの選択した影響関係について自覚的に認識しながら、それをまさに「踏み台」にしていくことが不可欠だということです。自分の肉体、エーテル体、アストラル体に働きかけている諸存在を認識し、それからできるかぎり自由であることが課題です。 

秘儀参入者たる導師は修行を伝授し、人々が肉体、エーテル体、アストラル体に侵入した存在を追い出して自由になるようにさせます。アストラル体の中に侵入し、人間から自由を奪う存在は、魔(デーモン)と呼ばれています。人間のアストラル体は絶えず魔に浸透されています。人間の真正な思考、誤った思考から作り出されるものが、徐々に魔へと成長していきます。善良な思考から生まれた善良な魔もいます。邪悪な思考、とくに不正な、虚偽の思考から生まれた魔は、恐ろしい、厭わしい姿をしていて、いわば、アストラル体を買収するのです。エーテル体に浸透するのが妖怪(スペクトル)、幽霊(ゲシュペンスト)です。私たちはこのような存在から自由にならねばなりません。肉体に侵入するのは幻影(ファントム)です。この三つのほかに、自我を行き来するのが霊(ガイスト)です。自我自身も霊です。人間がこれらの存在を呼び出し、人間が地上に受肉するとき、これらの存在が内的、外的運命を決定します。魔がアストラル体に、幽霊がエーテル体に、幻影が肉体に働きかけているのがわかります。これらの存在すべては私たちと密接な関係を有し、再受肉する際に私たちに近づいてこようとします。(P88)  

こうした、デーモン、ゲシュペンスト、ファントムというのは、それが歪んだあり方のものであるかそうでないかということによって、それが自分にとって避けるべきものなのか、それを受け入れるものか、そういうことを選択しなければなりません。しかし、どちらにしても、それから「自由」であろうとする姿勢が求められます。  

宗教書に述べられていることを見てみましょう。聖書に記されている悪魔を追い出す話は抽象的なものではなく、実際、言葉通りに理解すべきものなのです。キリスト・イエスは悪魔に憑かれた人を癒しました。キリストはアストラル体から悪魔を追い出したのです。これは実際に起こったことであり、まったく言葉通りに受け取るべきなのです。ソクラテスは偉大な開悟した精神の持ち主です。彼も自らのアストラル体の中に働くデーモンについて語りました。これは善良なデーモンです。デーモン、魔という言葉から邪悪な存在のみを想像すべきではありません。(P88-89) 

たとえば、アストラル体に影響しようとする悪魔を避けるためには、仏教的にいう「反省行」のようなあり方が必要です。つまり、悪魔は執着という、アストラル的な波動に同調してくるからです。ですから、嘘をついたり、欲望に溺れたりということが危険なわけです。

本来の修行というのは、そうしたデーモン、ゲシュペンスト、ファントムなどから自由になるために考え出された方法でもあるように思います。そして、そういう修行を通じて、自分の設定した修行のための運命の構図を利用してそこから自分の「命」を創造していく「立命」をなしていくこと。そのことが最重要のことなのです。

しかし、そうした意図をもってつくりだされ継承されてきた宗教的な修行形態は逆の意味での執着をつくりだしてしまうこともあるようです。「解脱」を自己目的化するような「悟りへの執着」です。そこには、「中道」ということがありません。「中道」のないところには、「愛」はありません。「悟りへの執着」は、逆エゴの発想でしかないのです。

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VI-4/運命4> 

さて、「運命」の章の最後の節になります。

カルマについての深い認識から神智学運動は発生しました。エーテル体の中に存在するものが来世で肉体に作用することがわかりました。心がけ、思考の傾向、方法は肉体に作用し、心の持ちようが霊的か唯物論的かによって来世のあり方が変わってきます。高次の世界について何かを知っている人−−霊的世界を信じているだけでも十分なのです−−は来世で中心がしっかりした肉体を持ち、神経系統が穏やかに働き、手の神経が神経組織の中枢まで穏やかに伝わっていきます。それに対して、感覚界にあるものだけを通用させようとする人は、その態度が肉体に伝わり、神経病になりやすい、落ち着かない、確固とした意志の中心点を持たない肉体を持つことになります。唯物論者は個々の部分の中に崩壊します。霊は結合します。霊は統一だからです。(P90) 

「カルマ論集成1いかにして前世を認識するか」(イザラ書房)の第五章は「輪廻転生とカルマは人智学的世界観の基本理念である」という表題になっています。上記のテキストからの引用で「神智学運動」とあるのは、「人智学運動」というふうに読みかえたほうが適切だということを念のために言っておきたいと思いますが、シュタイナーの最晩年の講義の主なものがこの「輪廻転生とカルマ」というテーマをめぐって行なわれたことはよく知られています。

「思い」は現実化します。従って、唯物論者の「思い」も現実化して現われることになります。ですから、現代という唯物論化した世界に、「輪廻転生とカルマ」という考えを少しでも流し込まなければ大変なことになるのです。 

上記の「いかにして前世を認識するか」から少し。 

輪廻転生とカルマを真理と認識すると、その知と認識をとおして、人間の自己は拡張していきます。この真理を認識していないあいだは、知と認識はある限界内に束縛されています。生まれてから死ぬまでのあいだのことしか認識できない、とこれまで主張されてきました。その限界を越えた世界へは、ただ信仰をとおしてのみ到達できる、と主張されてきました。霊的世界に、認識しつつ上昇するという確信がしだいに強くなってきています。しかし、認識の立場に立ち止まっているなら、あまり大きな意味はありません。認識の立場から道徳の立場、心情的−道徳的な立場に移ることに意味があるのです。そうすると、輪廻転生とカルマの理念の意味と偉大さが、はじめて示されます。

・・・輪廻転生とカルマを認識すると、事態はまったく異なってきます。死の扉を通過するとき、人間の心のなかに生きていたものは天上の世界にとってのみ意味があるのではなく、人間が生まれてから死ぬまでに体験することが未来の地球形成を左右するということを明白にしておかなくてはなりません。地球の様相は、人間がかつてなにをなしたかによって決定されるのです。人間が前世でなにをなしたかによって、地球の様相は決定されるのです。これが、輪廻転生とカルマの理念に結びつく心情−道徳です。このことを受け入れた人間は、「わたしは、どのように生きるかによって、未来の文化に働きかけるのだ」ということを知ります。人間がいままで狭い限界のなかでのみ知っていた責任感情が、輪廻転生とカルマの知によって、誕生と死の限界を越えて広がっていきます。 (P125-127)  

単に、今目に見えている物質的な連関というのみではなく、今ある環境は、過去のわれわれが形成したものであるということがわかれば、すべては自分の課題として現象しているのがわかりますし、「子供のために」というような多分にムード的な未来把握ではなく、まさに自分が今来世で生きる環境を形成しているのだというとらえ方によって、非常に切実で現実的なものに変わります。

自分はいま自分のつくり出した責任を負っている存在なのだし、今自分がなにをなしているかによって、未来への責任をも負っている存在でもあるわけです。単に、「カルマはこういう法則だ」というような知識を持つのではなく、この心情的−道徳的な責任感情をもって生きるということが重要なのです。

この章で扱っている「運命」についての話で最重要のは、まさにそうした自己責任を生きるということです。その「責任」は、自分だけではなく、さらに自分を包み込んでいるものにまで広げて考えていかなければなりません。人間は一人で生きているのではなく、社会の中で、民族の中で、世界の中で、宇宙の中で生き、生かされている存在です。 

そうしたことを仏教では「共業(ぐうごう)」と呼ぶのだそうですが、まさに「業(カルマ)」をともに担って生まれてくる仲間達とともに、過去の自分たちの形成したカルマを生きながら、またともに未来を形成しているのだという視点を持たなければなりません。そういう意味では、どこかの山に隠って修行するだとか、小さなコミューン的なセクトの中で生きることに自己満足するなどということは特に現代においては愚かなことだということを知らなければならないのです。 

体質は個々人においては運命を通して来世に現われますが、同時に遺伝的に次の世代に伝わり、唯物論的な考えの人の子や孫は神経系統がよくなく、神経病を通してこの唯物論的傾向を購っていかねばなりません。今日のような神経症的な時代は、前世紀の唯物論的な傾向の結果です。この唯物論的な傾向に対して霊的な志操を流し込む必要性を、人類の偉大な導師たちは認識していました。

もし、霊的な流れが大きな力を持たず、腐敗や無精が混ざり込めば、カルマ的な結果として、人類はますます神経質になり、中世に頼病が流行したように、唯物論的精神を通して深刻な神経病が発生し、すべての民族が狂気の伝染に襲われることになります。(P90-91) 

この講義がなされてからすでに90年近くが経過しています。唯物論的な傾向がまさに神経系統に影響を及ぼしているのを見出すことができます。こうした狂気を加速させないためにも、「輪廻転生とカルマ」という認識とそれを責任感情にまで実践的に高めることが急務になっているように思います。  

カルマの法則を洞察することによって、霊学は人類に治癒をもたらすものなのです。人類が霊的になれば、神経系統と魂の疾病はなくなっていきます。(P91) 

新宗教、新新宗教・・・と宗教の衝動が目立つ時代になってきたときに、オウム真理教の事件が起こり、宗教ということについての、両義的な見方に注目が集まっているように思います。

出口王仁三郎は「宗教は全廃されねばならない」と明言しました。それは、「信仰」によって「救われる」というようなあり方は、もはや時代の課題ではなくなっているということにほかならないように思います。認識と心情−道徳感情とが一体となったあり方は、もはや宗教ではないのです。我々は今、これまでの「宗教」のあり方を越えねばならない時代を生きています。そのテーマが集約的にあらわれているのが「輪廻転生とカルマ」なのです。

 

(第6章はこれで終了し、次からは第7章の「カルマ」に移ります。基本的に、この第6章のテーマのつづきになりますが、次章からはもっと詳しく、カルマの視点の検討に入りたいと思っています。)


 ■「薔薇十字会の神智学」を読む、メニューへ戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る