●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会 

<VII-1/カルマ1> 

さて、この章は前章の「運命」の章の展開部分であるともいえます。

テキストに沿って、いきましょう。まず、死んですぐ後、体験する現象について説明されています。死後のプロセスについては、これまでの章でいろいろご説明しましたので、必要に応じて、ご参照いただければ幸いです。

人間は、死後、肉体から離れて、アストラル界を通過していく前に記憶像が現われますが、そのとき、自分が外へと広がっていく感情を持ちます。それは自分が送った人生のパノラマのようだといいます。そして、「この像のすべてが私なのだ」という感情を持ち、自分のエーテル体が拡大し、太陽まで包み込んだような感じをもつのです。肉体は、地上領域のものですが、エーテル体は太陽領域のものだからです。  

その後、エーテル体が捨てられると、宇宙のはるかかなたまで広がっていくような感情をもちますが、それは宇宙空間のすべてを満たしているというのではなく、自分のなかのパーツが宇宙のいろんな場所になるように感じます。このように、空間的な拡大感はあるものの、その空間を満たしているのではない。そういう感覚が、自分をアストラル的に感じるときの特徴です。 

そして、こうした感情は、人生を逆方向に誕生まで遡っていく欲界期でのものでその後、他の欲界の生命全体と結合していきます。

ここが重要です。 

死者はまず、最後に関係した人の中に入っていくと感じ、その後、生きている間に関係を持った人々、存在すべての中に戻っていきます。(P93)  

つまり、自分が相手に与えたものを、相手の身になって体験していくのです。 

たとえば、マインツである人を殴ったことがあるとしますと、死後、その人に与えた痛みを自分が体験することになります。もし、自分の殴った人がまだマインツにいれば、死後、アストラル体の一部はマインツにあって、その痛みを体験します。もし、殴られた人がすでに死んでいれば、欲界の、その人がいるところにいくことになります。一人の人に対してだけでなく、地上の、そして欲界の多くの人々に対してこのような体験をします。自分は分断された存在として欲界のいたるところにいて、身体性を消去していきます。生涯のうちで関係あった人すべての中に入り込んで、それらの人々に対して行なったことを相手の側から体験し、それらの人々と永続的な結びつきを作るのです。自分が殴った人と欲界でともに生きることを通して、その人と結びつきます。その後、神界へと上昇し、また再び欲界へと戻ります。そして、アストラル体の形成に際して、ともに生きてきた人と築いたものを見いだすのです。そのような結びつきは数多くあり、自分と関わりのあったものすべてが網のように網みあわさっています。(P93-94)  

自分が自分の感情を体験していればそれで済むのはこの世のこと。死後は、自分が関係のあったすべての存在に与えたものを、相手の側からすべて体験しなければらないわけです。

自分が苦痛を与えた相手、悲しませた相手、苦しめた相手、いじめた相手・・・そんなすべての人のことをその人自身として体験するのです。それをイメージすると、背筋が寒くなってくるのはぼくだけではないと思います^^;。

もちろん、例に挙げたようなマイナス的な側面だけではなく、プラスの側面についても相手の体験即自分の体験として味わうわけですから、きわめて平等なあり方だといえますよね。

ですから、自分が日々生きていく中で、それだけ相手の痛みを我が痛みとして感じられるかという魂の能力が重要だということがわかります。相手の痛みがわかれば、無闇に自分のエゴを相手に振りかざすことは非常に難しくなりるからです。

しかし、厳しさもまた愛であるように、ただただ相手を甘やかすのでは、自分も甘やかされたことになってしまいますので、「相手になにを与えているか」という観点を、相手をどれだけ生かすことができているかという視点からとらえていくことが重要ではないかと思います。

さて、続いて、カルマと外的な遺伝の関係についても説明されています。

ここには、J.S.バッハの例が挙げられています。バッハの家系には、250年の間に29人の音楽家が生まれていますが、優れた音楽家になるには、単なる「内的な音楽的才能」だけではだめで、「ある一定の形の耳」を必要とします。こうした聴覚器官の形が遺伝してきます。音楽的才能のある人が受肉しようとするときには、それにふさわしい音楽的な耳をしている家系に生まれようとします。音楽的才能にふさわしい肉体期間がなければ、才能が発揮できないからです。

数学的才能も耳のなかの三半規管の特別は発達が必要とされます。それから、これも興味深いことなのですが、「道徳」にもそれに適した肉体が必要であり、それを遺伝を通して伝えてくれる両親が必要です。道徳家は、そうした両親を探し出すというのです。

 

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VII-2/カルマ2>


さて、続けましょう。 

人間はいつでも自由に、カルマの帳簿に新たな計算の内訳を記入できるのです。ですから、人生は人間の手では変えることのできない運命の法則に支配されていると思うべきではありません。カルマの法則によって自由が妨害されることはありません。過去からのカルマを考えるのと同様、未来へのカルマを考えねばなりません。私たちは過去の行為の作用を受け、過去の奴隷なのですが、未来の主人、支配者でもあるのです。良い未来を創造しようと思うなら、可能な限り良い内訳を人生の帳簿に記入していかねばなりません。(P97) 

自分を商人であるとしてみましょう。帳簿に貸借を記していきます。これまでにたくさん儲かったのなら、黒字経営でしょう。しかし、借金をたくさん抱えているとしたら、そのままでは倒産してしまいます。借金がたくさんあるからということで、それからも借金をし続けると、その倒産の時期はますます早まります。不当たりをだす前に、なんとかしなければなりません。その不当たりを出すかどうかは、今、そしてこれからの自分次第であって、不当たりをだすのを宿命的にとらえるというのは、正しい考え方だとはいえません。また、今黒字だとしても、それがこれからも続くとは限りません。帳簿を黒字にしつづけるためには、それなりの努力が必要になります。

過去の自分の行ないによって赤字になっているのも黒字になっているのも自由でありこれからの自分をどうしていきたいかによって、自分の行ないをどうしていくのかもまた自由です。しかし、どのようにすれば、帳簿が黒字になるのかを知らなければ、黒字にするための具体的な実践方法がわからなければ、そのせかっくの自由を生かすことができなくなってしまいます。

だからこそ、「カルマ論」が必要になります。自分の望む家を建てるのは、それなりの設計が必要になります。設計図に基づいて具体的な建築を考えていかなければなりません。そしてなによりも、実際に家を建てなければ、それは家ではありません。つまり、実践なきカルマ論は無益であるということです。

また、そうしたカルマについての考え方をさらに展開させることが必要です。 

誰かが苦しんでいるのを見て、「彼は苦しむに値する。彼は自らのカルマに耐えねばならない。もし、私が彼を助ければ、彼のカルマに干渉することになる。それは愚かなことだ。彼の貧困、不幸は前世からの結果だ。もし、私が彼を助ければ、彼のカルマの帳簿に新しい内訳を記入することになる」というのは愚かなことです。助けることで、その人を進歩させることができるのです。千マルクないし、一万マルク貸せばその商人の破産を救えるのに、「いや、そうすればあなたの帳簿が変わることになる」というのは愚かなことです。−−カルマの関係においてはどのようなことも作用を及ぼさずに消え去ることはないと知っているために、その人を助けようとするのです。カルマの法則は私たちを行為に駆り立てるものでもあるべきなのです。(P98)  

この考え方は非常に重要なことです。カルマの考え方は、人を非難するためのものではないのです。それは、「愛」の思想にほかならないからです。もちろん、それが甘やかしになってはいけませんが、それは「キリスト衝動」であり「大乗」の実践でもありますから、自分の未来に向かうプラスのカルマの創造を実践することと同様に、人の未来創造のためのカルマ形成に寄与できるという視点を決して忘れてはならないわけです。シュタイナーの教育についての考え方も、そうしたカルマへの干渉を恐れないということを前提にしたものです。 

誰かが悲惨な境遇にいて、自分が恵まれた境遇にいるとすれば、その人を助けることができます。その行為を通して、その人の人生に新たな条項を記入するのです。力のある人は二人の人を助け、その二人のカルマに働きかけます。もっと有力な人は十人、百人の人を、非常に偉大な人は無数の人を救済することができます。このことは、カルマ的な関係の原理に矛盾するものではありません。カルマの法則を信頼することによって、このような救済行為が人間の運命に関与することがわかります。(P98-99)  

ここで大事な視点を忘れてはならないと思います。そうした救済する行為は、救済した人の宝物にもなるということです。ただただ困っている人を、困っている人のために救うというのだけではないのです。それは、自利が即、利他であるということにほかなりません。

そうした視点を持たないと、自分の慈善行為に溺れかねません。「わたしは、人のためにというのだけではなく、そうしたいから、自分のためにも、そうしているだ」そうした視点を忘れてはならないわけです。

人のカルマへの干渉という行為は、まさにそうした自利即利他としての愛であってはじめて意味をもちます。 

お布施というのも同じです。「お布施をしてあげた」というのではなく、「お布施をさせていただいた」というのが本来の視点です。托鉢というのは、物乞いではありません。感謝すべきなのは、お布施をさせていただいたほうなのです。

キリスト存在が地上に下ったとき、人類は救済を必要としていました。救世主の十字架上での死は、無数の人々のカルマに関わる救済行為でした。キリスト教的秘教と神智学、霊学との間には矛盾は一つも存在しません。両者を正しく理解することが大事なのです。カルマと救済の原理との間には深い一致が見られます。(P99)  

「郵便ポストが赤いのもみんなわたしのせい」という冗談がかつてありましたが^^;まさに、どれだけのことを自分の責任であるととらえるかによって、その人の器がわかります。キリストは、全人類のことを自分の責任としてとらえたわけです。

ですから、明らかに自分の責任であるにもかかわらず、責任を回避するどころか、人に責任をなすりつけるような人物の器は、推して知るべしといえるでしょう^^;。

「どれだけを自分の責任としてとらえることができるか」そのことを、自分の魂の成長の度合いとして理解するのもいいかもしれません。

そいえば、自分が悪いのに、自分にはまったく責任がない、とか言い張り、そのうえに、弁護士事件などまで起こして騒がしている人がいますよね^^;。

  

 

●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VII-3/カルマ3> 


カルマの法則をより深く理解するためには、神秘学的に、人類の進化、地球の進化を見ていくことが必要です。このアーティクルでは、そこらへんについてご説明していくことにします。

人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我で構成されていますが、このなかで最も古い由来を持つのが肉体で、最も新しいのが自我です。人間は最初は肉体のみの存在で、それにエーテル体、アストラル体、自我が次々に付加してきたのです。

もちろん、肉体が最初から現在の肉体のようであったわけではなく、最初に肉体の原基ができ、それが次第に現在のような肉体になる過程で、他の構成要素が加わってきました。他の構成要素も、最初はその萌芽ができ、それが発達してきているわけです。 

解剖学や生理学の視点を超えて心臓を研究しますと、非常に高次の叡智の表現が見いだされます。アストラル体はその性質上、肉体の心臓と同じように非常に完成されたものと考えるわけにはいきません。心臓は精巧に、叡智に満ちた仕方で作られています。アストラル体は欲望を持つことによって何十年間も心臓に毒を注ぎ込み、心臓はアストラル体から流れ込む毒に抵抗しつづけています。将来、アストラル体は肉体と同じく完成されたものとなり、肉体よりもずっと高次なものとなります。今日では肉体が最も完成され、エーテル体はまだ未完成、アストラル体はもっと未熟で、自我はまだ赤ん坊のような状態です。(P100) 

人間は、その構成要素を、輪廻転生を繰り返すことで構成要素を発達させてきたのですが、  これと同じように、地球も輪廻転生を経てきましたし、またこれからもそれを続けていくことになります。

地球はこれまで、三つの受肉を経てきました。最初が「土星紀」、続いて「太陽紀」、そして「月紀」です。現在の受肉紀は「地球紀」と呼ばれます。そして、次の受肉は「木星紀」、続いて「金星紀」、「ヴルカン星紀」、というふうに続きます。

人間の肉体の萌芽ができたのが、「土星紀」、エーテル体の萌芽ができたのが、「太陽紀」、アストラル体の萌芽ができたのが、「月紀」、そして、「自我」はこの「地球紀」でやっとその萌芽が生まれたばかりです。

次の「木星紀」で、人間のエーテル体は、現在の肉体のように完成され、「金星紀」で、アストラル体がその段階にまで至り、そして「ヴルカン星紀」で、自我が最高の進化段階に達することになります。

「土星紀」、「太陽紀」、「月紀」、「地球紀」、「木星紀」、「金星紀」・・・という名称は、一週間の曜日のなかにみられます。「火曜日」と「水曜日」が見あたりませんが^^;、これは、「地球紀」が「火星−水星」の進化段階を内包しているからです。このように、一週間の曜日の名称は、地球の経る進化状態を表わしたものです。

さて、現在の地球紀で人間が獲得した「自我」について、テキストに興味深い記述がありますので、それを。 

自我は密接に血液に関係しています。自我が人間に受肉する以前には、人体の中に血液は流れていませんでした。血液は地球の進化に関係を持っているのです。もし、地球が進化の過程で火星と出会うことがなかったなら、血液は形成されなかったでしょう。火星との邂逅以前には、地球上に鉄は存在しませんでした。血液が存在せず、血液の中に存すべき鉄分もありませんでした。地球紀は前半に火星から決定的な影響を受け、後半に水星から重要な影響を受けます。火星は地球に鉄をもたらし、水星からの影響は人間の魂をいっそう自由で独立したものにします。地球紀の前半を火星、後半を水星期ということができます。地球進化は「火星−水星」と表現できます。火星、水星という言葉は今日の火星と水星を指しているのではなく、地球紀の前半と後半に影響を与える存在を意味するものです。(P102)  

このように、地球の進化と人間の進化とは密接に関わり合っています。人間は地球とともに進化してきましたし、これからもともに進化していくことになります。逆にいえば、人間が進化しなければ地球は進化することができません。

最近では、地球環境保護を唱うラディカルな方々の間では、「この地球上に人間がいなければ地球は平穏な星でいられる」そういう言葉が聞かれることもありますが、神秘学的にいえば、それは地球と人間との関係を知らないからそういうことが言えるのだということがわかります。

地球は昔からずっと現在のような物質体であったというイメージも神秘学的観点からすると、非常に稚拙な見方であるということがいえますし、人間の進化に関しても同じ事がいえます。もちろん、それは現在の科学主義的な、現在の五感のみを基盤にした認識様態からは容認されるものではないのは、だれにでもわかります。しかし、そういうとらえ方も決して根拠のあるものではないことは真の科学者であれば常識であると言ってよいでしょう。もし、視覚なしで世界をとらえている考え方があったとしましょう。その視覚のない四感を基盤にした認識における科学はその範囲内でそれなりの世界観を導きだすことができます。しかし、その世界観が、視覚のある世界を否定することはできません。芸術的感性や魂の受容度などの「差」に応じて「世界」は「同じ」とはいえないということもまたいえるのだと思います。

ですからここでは、まずは、「ファンタジー」としてでも、そういうビジョンから人間、地球、宇宙をとらえてみることからはじめてみましょう。 

次章からは、そうしたファンタジーのなかでももっともファンタジーっぽい

「宇宙の進化」について見ていくことにしたいと思います。

 

(第7章/終了)

  


●ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)読書会

<VII-4/カルマ4(番外編)>

 

第7章の「カルマ」は、前回のアーティクルで終了ということでしたが、<番外編>を加えてみたいと思います。

シュタイナーの新刊に「悪の秘儀/アーリマンとルシファー」(イザラ書房)がありその第二章の「キリストの行為と、キリストに敵対する霊的な力としてのルシファー、アーリマン、アスラについて」に「なぜカルマがあるのか」ということに関して、非常に興味深い部分がありましたので、それをご紹介しようというわけです。

まず、主な部分を概観してみましょう。 

アトランティス時代の半ばから、アーリマンの霊の集団が人間に働きかけるようになりました。このようなアーリマンの霊の群れは、何を目指して人間を誘惑したのでしょうか。アーリマンの集団は、人間が周囲の世界に存在するものを物質的に受け取るように、すなわち人間がこのような物質的なものを通して、物質的なものの真の根拠である霊的なものを洞察することがなくなるように人間を誘惑しました。(中略)

では、人間を絶えず進化させようとするあの霊的な存在たちは、このような誘惑に対抗して−−つまり感覚的なものから生じる誤謬や幻影に対抗して−−どのような手段を講じたのでしょうか。人類を進化させようとする霊たちは、誤謬と罪と悪を克服する可能性を感覚的な世界の中から再び獲得することができるような状態に、人間を置くことを試みました。(中略)つまり人間を進化させようとする霊たちは、「カルマを担い、それを作用させる可能性」を人間に与えたのです。人類を進化させようとする存在たちは、ルシファー存在たちの誘惑によって生じた損害を埋め合わせなければならなかったので、世界に悩みと痛みを、そしてまたそれと結びついた死をもたらしました。それと同じように、人類を進化っせようとする存在たちは、感覚的な世界に関するアーリマン的な誤謬の中から流れ込んでくるものを修復しなければなからなかったので、人間に「みずからのカルマによってあらゆる誤ちを再び取り除き、自分自身が世界の中に引き起こしたあらゆる悪を再び消し去る可能性」を与えたのです。もし人間が悪のみに、誤謬のみに陥っていたら何が起こったでしょうか。そのときには、人間は少しずつ、いわば誤謬と一体となり、進化することができなくなったことでしょう。(中略)カルマの恵みは、どこから来るのでしょうか。私たちの地球の進化において「カルマが存在する」というこの恵みは、いったいどこから生じるのでしょうか。進化全体においてカルマを生じさせる力とは、キリストにほかなりません。                          (P64-74)   

ルシファーによって与えられた感覚的な欲望への対抗措置に対してはそれに人間が陥ることのないような反作用として、病気や悩みや苦痛が与えられました。ルシファーが病気や悩みや苦痛を与えたのではなく、ルシファーに対抗する高次存在たちが、人間にそれらを「恵み」として与えたわけです。

それと同じように、アーリマンは人間に唯物論的な衝動を与えましたがこの世の物質的な世界に溺れないように、唯物論的な世界観に埋没してしまわないように、キリストによって人間に「カルマ」が与えられました。アーリマンが「カルマ」を与えたわけではないのです。「カルマ」はキリストの「恵み」そのものなわけです。

そこで考えてみなければならないのは、なぜルシファーやアーリマンが存在しているのかということです。ただ人間を惑わすためにだけ存在しているわけではないはずです。ルシファーやアーリマンの働きかけがなかれば、人間はそれなりに高次存在の働きかけを受けて、順調に進化を遂げていたのでしょうが、なぜそうした「悪」とされる存在の影響を受け、迷いの中に陥り、そうした苦難を通る必要があるのでしょうか。

これに対しては、なぜ子どもが純粋な状態で生まれてきて、その後さまざまな制約のなかで迷いながら成長していくのか。そういう問いかけに対する答えと同じような発想が可能です。そして、子どもの純粋さと一度それを失った後でもう一度獲得した純粋さとの違いについて考えてみるのがいいと思います。それとも、ある問題が与えられて、その解答をそのまま写すだけの行為と解答を見ないで、その問題を自分で解いていく行為の違いともいえるでしょうか。人間は誤謬と罪の可能性のなかに置かれています。と同時に、人間はそれを脱して進化していく可能性ももっています。 

キリストを通して、カルマの可能性が人類の中に入り込んできました。しかしいまや、人間は自己意識を備えた存在として、キリストの本質を、そしてキリストと世界全体のつながりを認識しなかればなりません。そうすることによってのみ、人間が実際に一人の「私(自我)」として活動することが可能になるのです。(中略) 現在人間は、もしそれを欲するならば、キリストを認識することができます。人間は、いま、キリストを認識するために、あらゆる知恵を集めることができます。そのことによって、人間は何を行なうのでしょうか。そのとき、人間は途方もなく大きなことを行なうのです。「キリストとは何なのか」ということを洞察するためにキリストを認識し、知恵と現実的に関わり合うならば、人間はキリスト認識によって自分自身を、そしてさらにはルシファー存在たちをも救済することになるのです。もそ、「私は、かつてキリストが存在したということに満足している。私は無意識のうちに救済されるのだ。」と言うだけならば、人間はルシファー存在たちを救済するために寄与することは決してできません。(中略)ルシファーの霊たちを通して、人間は自由を獲得しました。しかし人間がキリストを認識するとき、恵みとしての自由が霊的な領域へともたらされます。「人間にはこのようなことが可能である」ということ、また「人間はキリストを認識することができる」ということ、そして「ルシファーは新しい姿で復活し、聖霊としてキリストと一体になることができる」ということを、キリスト自身も予言として、周囲にいる人々に次のように告げています。「あななたちは新しい霊、聖霊とともに照らされる。」(P79-82) 

人間が自由であるということは、ルシファーの恵みです。もちろん、その自由とともに悪の可能性も人間はもつことになりました。そのことの意味を考えてみなければなりません。人間はなぜ自由の可能性をもつ必要があったのか、ということです。自由は堕落する自由でもあり成長する可能性でもあります。そしてその選択肢のなかでプラスの方向を選択することで選択した者が成長するだけではなく、選択肢を与えた存在も成長するわけです。

ルシファーも、人間がキリストを認識することによって「キリストと一体と」なることができます。そして、ルシファーは光としてのキリストを支える「光の担い手」となるのです。

このことは、「悪」の役割について非常に重要なことを示唆しているといえます。

<第7章「カルマ4(番外編)」終了>


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