十二感覚ノート1

触覚


1999.2.4

 

触覚には、人間の本来的な渇望が現われています。なぜなら、触覚は人間をまさに今触れている事物から締め出し遠ざけること、にもかかわらず人間はその事物と近しい関係にあることに、私たちは魂の深部で気づいているからです。とはいえ私たちは、宇宙から完全に隔たっているわけではありません。なぜなら、もしも私たちが宇宙から完全に締め出されているのだとしたら、私たちの内に宇宙に対する渇望が生じたりはしないはずだからです。いつも宇宙とかかわりをもち、はじき返されているからこそ、私たちの内には、かつて結びついていた本来の世界と再び結びつきたいという渇望が消えずに残っているのです。触覚は境界を生じさせ、私たちを事物から隔てます。私たちは全体世界から追放されましたが、同時に、その全体世界のすぐそばへと再び近づきます。

 このことをノヴァーリスは『断章』のなかで実に美しく述べています。「触れ合いとは、別れであり再開である」と。これは、宇宙の深遠なる謎でしす。(中略)

 ルドルフ・シュタイナーは触覚がもつそもそもの謎について、触覚がなかったら、人間は神に関する意識を獲得することは決してできなかったであろう、と述べています!(中略)

 皆さんは神的世界のすぐそばにいます。それは、皆さんの手のなかにあります。にもかかわらず、それは同時に、無限のかなたにあるのです。何光年もの彼方にです!これが触覚のあり方が私たちの内に呼び起こす感情です。

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」耕文社+イザラ書房/P27-32)

 自分が触覚だけの存在になったとイメージしてみましょう。そのときその触覚はまさに世界を体験するためにあるのですが、あるものにふれることができるということは、そのふれられたものとふれる自分とが別れているということでもあります。別れているからこそ、ふれることで関係をもとうとするわけです。

 その不思議さを感じてみてください。ふれることができるということは、ふれられるものと隔てられているのだという不思議。

 あなたに近づきたい。そうして、あなたにふれる。しかし、ふれることで、限りなく限りなく、あなたは遠くなる、あなたがわたしではないということが自覚されるという不思議。

 恋の不可能性。恋とは乞い。乞えば乞うほどに遠ざかる。焦がれれば焦がれるほどに、あなたがわたしではないという絶対的な距離の前で、恋の不可能性が絶対的なものになっていく・・・。

 神を求めるのも恋と同じ。わたしは神でないからこそ、神を乞う。神にふれようとする。そして、乞えば乞うほどに遠ざかる。 あなたではないからこそ、あなたを求める感覚。あなたを求めるからこそ、わたしという存在が自覚されていく。その逆説をつくりだす感覚こそが、触覚だといえます。

 さて、十二感覚のそれぞれは、十二星座と対応しているといいます。

 宇宙には一定数の特定の原型像、原型的モティーフ(形態形成理念と言ってもよいでしょう)があり、それは、大宇宙においては星々のいくつもの結びつきとなり、小宇宙においては私たちの身体、私たちの感覚諸器官となる、と。つまり、大宇宙も、一つの源から生じているのです。(P50)

 それぞれの感覚をご紹介する際に、それについてもご紹介していこうと思います。

 

 十二星座と感覚●触覚と天秤座

 触覚を扱った際に私たちは、人間が世界に触れるというまわり道をして自分自身を自覚するに到るのは極めて繊細な出来事である、と述べました。それはてんびん座の原理の一つです。皆さんは大宇宙を見上げて、ご自分が本来的に小宇宙であることをはかり知ります。ですから皆さんは、てんびん座をこう思い描かなければなりません。「そこでは大宇宙と小宇宙との関係が手探りされる」と。(P50)

 


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