十二感覚ノート2

生命感覚


1999.2.6

 

ルドルフ・シュタイナーは、私たちはこの感覚によって私たち自身の体調を自覚するのだ、と言っています。皆さんはこの感覚で、皆さん自身の気分を知覚します。(中略)

 誰もが、身体全体にくまなく拡がっている感覚器官をもっています。それは医学的には、交感・副交感神経と呼ばれています。それは、身体全体に張りめぐらされている極めて細い神経、私たちに自分の体調を知覚させてくれる神経、つまり生命感覚器官です。この感覚器官のおかげで私たちは、空腹や喉の渇きにも気づきます。実際私たちは、私たちの身体が食べ物や飲み物を必要としているのをどこから知るのでしょうか?生命感覚があるからです。ですから皆さんはこの感覚を、体調感覚と名づけることもできるでしょう。(中略)生命感覚がなければ私たちは何の痛みも感じないだろうことは、皆さんもよくお分かりでしょう。痛みとは本来、生命感覚の極端な現われにほかなりません。(中略)

私たちは、生命感覚なしには思慮分別を身につけることはできません。これはとでも興味深い事柄です。もしも私たちが痛みの感覚をもっていなかったとしたら、どのようなことになるでしょうか?このことに関してもノヴァーリスは実に美しい言葉を残しています。「人は痛みを感じることに誇りをもつべきだ。…すべての痛みは、私たちがかつて高い位階にあったことへの追憶なのだ。」(中略)

痛みは私たちに、何かが本来のあり方ではないことへの警告を発してくれます。そうだとするなら、その警告は「それでよい、それではいけない」という判定を下すことのできる領域からやってくるのでなければなりません。(略)それは、高位の秩序に由来する存在でなければなりません。

 ルドルフ・シュタイナーは、私たちの肉体の謎を知っている存在に名前を与えています。それらの存在はもちろん、極限の高みにある存在です。(略)身体についての完璧無比な知識(略)を備えている審問官は、人智学のなかでは、肉体的な人間との対比において霊人と呼ばれています。それは、私たちに警告を与えることができる力の存在がどこからやってくるのかを示唆する概念です。(中略)

自分自身に気をつけず、自分自身の身体と正しくつき合わなければ、ついに人間は病に伏すことになるように、小宇宙である人間が、いわばより多くの良心をもって大宇宙とつきあうようにならなければ、大宇宙もやはり、破滅への道をたどることになるのです。

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」耕文社+イザラ書房/P32-46)

 ろうそくに火をつけ、その炎に指をかざして楽しく遊ぶ少年がいました。指がぱちぱちはじけるのをうれしそうにながめているのです。本書に紹介されている、痛みを感じない少年の話です。

 痛みを感じないとしたらどうでしょうか。痛みとは生命感覚のもっとも先鋭化されたもの。生命感覚に欠けているとしたらどうでしょうか。空腹も渇きも感じることがないとしたら。

 そうした生きている実感としての感覚を持てないとしたなら、人は生きていくことさえできなくなるでしょう。生きることは苦しみであるとは仏陀の示唆ですが、逆にいえば、そうした苦しみがないとしたら人は生きていることができなくなるのです。

 この世に生まれてきて人はまずそうした苦しみの数々を通して生きることを学んでいきます。やがてその苦しみそのものを直視することになり、そうした生命感覚を持ちながら、それを克服しようとします。その葛藤のなかで自分の本来の姿に気づくことになります。

 ところで、その生命感覚はどこからくるのでしょうか。シュタイナーは、それは「極限の高みにある存在」である「霊人」からだといいます。生命感覚ははるか高みからくる「恵み」なのです。

 仏陀はそれを「苦」として位置づけましたが、それは「恵み」であること、「恵み」であることに気づくことが極めて重要なことではないかと思います。

 仏陀からキリストへというテーマもそこに示唆されています。キリストの復活は、ファントムとしての復活です。人間の肉体性の理想としてのファントム。

 人間は「霊人」のような高みにはありません。だからこそその高みからの「恵み」を必要としています。その「恵み」によってその「高み」を志向する可能性を得ることができます。

 人間はミクロコスモス。マクロモスモスと照応しているといいます。そのミクロコスモスとしての人間は、生命感覚を持ち、それによって「思慮分別」を身につける可能性を得ています。その可能性を生かさずミクロコスモスとしてのみずからを軽視していきるとしたならどうでしょうか。人間が病になるというのは、それに照応しているマクロコスモスもまた病になるということではないでしょうか。

 人は「苦」を「恵み」として認識しなければなりません。苦しみから解脱するという発想ではなく、その苦しみが高みからきているものだと認識することで、自分を「新しき人」へと変容させていくよう志向しなければなりません。その営為こそが、宇宙進化への寄与でもあるのではないでしょうか。

 人間の可能性を示唆しながら、肉体に牢獄をみたグノーシス。身体は悪魔がつくったものだといい、それにとらわれない清浄さを重視したのですが、その悪としての身体にこそ可能性を見なければなりません。その契機として高みからの「恵み」としての生命感覚が与えられました。

 生命感覚とさそり座(わし座)との対応もそのことからとらえることができます。

 

 十二星座と感覚●生命感覚とさそり座(わし座)

 次の星座はわし(鷲)座あるいはさそり座です。鷲は、人間を表わす崇高なる象徴的原型です。蠍はまさしく、鷲の逸脱を表わしています。鷲の、深みへの墜落です。私たちは今ここで、痛みとはいったい何なのかという問いかけに、占星術的に答えることもできます。「痛みとは鷲が落とす影であり、その影は蠍となる」と。墜落が起こるには、そもそも何かが高みに存在していなければなりません。ですから、獣帯内での深淵への墜落は、高みにある領域からの墜落でなければなりません。皆さんは、悪魔もまた天使であったこと、高次の存在であったことをご存じでしょう。悪魔は翼を焼かれた堕天使なのです。そして、人間における痛みも、いわば蠍が鷲の萎縮した姿であるように、それが人間の内で生じる最高位にあるものの墜落であることを指し示しているのです。(P51-52)

 


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