十二感覚ノート3

運動感覚


1999.2.11

 

他の人間が動いているのを見るときには、他の人間が動いているのをまさに見ることになりますが、自分の手や足を動かすときには、それを外から見ることでそれを知るのではなく、自分の手や足が動いているのを内側から感じます。それが、運動感覚なのです。(中略)

誰もが自分の肉体を自ら動かすことができますし、自らその動きを感じます。それを私たちは運動感覚と名づけます。そして、この動く能力、この力動的な原理を、人智学ではアストラル体と呼んでいます。(中略)

さて、このような動きはどのようにして成立するのでしょうか?ルドルフ・シュタイナーは人間の動きについて、実に奇妙なことを言っています。彼はこう言っています。「皆さん、そこに水の入っているコップがあるとして、それをつかむために私の手がそのコップに向かって差し出されるとしたら、私はごくふつうの人間として、こう言います。『私の手は私から離れてコップへ向かう』と。これまこれでまったく論理的です。しかし霊的透視能力をもつ人間にとっては、それはまったく別様に見えるのです。彼は言います。『いや、手はここからそこへ向かうのではない。手はコップから私の方へやってくるのだ。見えない手が、そこからここへやってくるのだ』と。」(中略)

ルドルフ・シュタイナーはある動きの起点と終点とを入れ換えて語りましたが、彼はそれをもって、霊的透視能力を備えている人間は意図人間を見ることができるのだということを示唆しているのです。人間の動きにかかわる事柄のすべては、まさにそういうことなのです。背後に存在している意図を考慮に加えることなしには、皆さんは動きについて何も明らかにすることはできないのです。

 コップを手に取ること、AからBへ向かうこと、それは、それよりずっと大きな全体、より大きな意図のなかのほんの小さな一部でしかありません。そして私たちは、その全体、その大きな意図を生命意図と呼んでいます。これは、人智学ではカルマと呼ばれているものに当たります。(中略)

 私たちの運動感覚に属していて私たちを実際的に動かしている存在、私たちの深部にある生命意図を、人智学は生命霊と呼んでいます。(中略)私たちは過去からの旧いカルマをもっています。私たちはそれに再び巡り合います。しかし同時に私たちは、新たな関心を育てていくことで、これからの新しいカルマをもつくり出していくです。皆さんはこの二つのカルマを、皆さんの内で比較的容易に見分けていくことができます。皆さんの方へおのずとやってくるもの、それは皆さんのそもそもの生命意図につながっています。しかし、皆さんが骨を折って自分のものにしなければならないもの、少なくとも、皆さんのこれからの人生にとって意味のあるものなのです。そうでなければ皆さんは、過去からの定めにのみ縛られた、完全に隔離された存在になってしまいます。

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」耕文社+イザラ書房/P52-70)

 動くということの深みには、生命意図があるという。みずからの一挙手一投足から旅などの移動に到るまで、我々が動いているということの内にはあらかじめ「意図」「目的」があり、その「意図」「目的」のほうが我々のほうにやってくる。

 そうとらえたとき、この地上におけるすべての行動においては、意識するにせよしないにせよ、何よりもみずからの「意図」「目的」こそが重要だということが知れる。

 偶然というのは認識の欠けた必然だというとらえ方があるが、「意図」「目的」がみずからはそれと知らぬうちに存在しており、それが「偶然」という仮面をつけて我々を襲っているにすぎない。

 ものぐさというのは、ひょっとして「意図人間」への拒否感か、いやそうまで積極的なものでもなくて、なにかの「偶然」の起こることへのまさに面倒臭さなのだろうが、ぼくのような憂鬱質はその面倒臭さに包まれているところがある(^^;)。シュタイナーが、憂鬱質を決して褒めないのは、胆汁質のような積極的な「意図人間」、「偶然」を恐れない勇気を求めていたからなのかもしれないが、そうしたことはぼくのような憂鬱質にはけっこう辛いところがある。

 余談はこのくらいにして、自分の動きを「意図人間」ということから観察しはじめることで、自分がいかに自動人間であるかということがわかる。グルジェフがいかに人間が自動機械のようかということを強調しそこから人間を解き放そうとしたのかが実感される。

 ふと気づくとさっきまで自分のしていたことを忘れている。忘れないまでも自分の細かい動作を思いだそうとしてみても、どうしても思い出せないことのなんと多いことか。

 シュタイナーのいう神秘行のなかにも、寝る前にその日一日の自分の行動のいちいちを今から逆に辿っていくというのがあるが、やってみるとこれがなかなかに難航するものであることがすぐにわかる。この逆行瞑想というのは、おそらくこの「意図人間」の認識にも深く関係していることだろう。

 さて、この「意図人間」「生命意図」は、「生命霊」であるといい、それは「カルマ」に関連したものだということが述べられてる。ここで重要なのは、「過去からの旧いカルマ」と「新しいカルマ」という二つのカルマの視点をきちんと「見分けて」いくことだ。未来を創造していくという積極的な姿勢がなければ、「過去からの定めにのみ縛られた、完全に隔離された存在になってしまう」という。

 そのためには、今自分のあらゆる行動において、未来への「種」となるものを蒔かねばならない。「種」を蒔くには、その土壌が重要となる。

聖書にも種を蒔くたとえがあるが、自分の自由意志として、その土壌を創っていくという視点が必要だろう。いまだ存在しないものへのはるかな視点。ノヴァーリスのいう「ポエジー」もまたそのひとつではないだろうか。

 

十二星座と感覚●運動感覚といて座

 この感覚は明らかにいて座と結びついています。ピストルの射撃の練習で…最初に与えられる心構えは、ここからあそこへ撃つという感じではなく、自分はすでに標的に届いているという感じをもつことです。…皆さん、私たちは標的から、つまり目的から始めなければなりません。…皆さんは、目的をもったすべての行為において、目的から、結果から始めることを学んでいかなければなりません。弾も矢も、あそこから引き寄せられるのです。これが、いて座の内実です。いて座は、設定された目的から、終わりの点から、動きだします。(P70)

 


 ■「十二感覚論ノート」インデックスに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る