十二感覚ノート4

平衡感覚


1999.2.13

 

触覚の助けを借りて自分の肉体を我が家と感じ取るように、また、生命感覚によって我が家の家の状態を知るように、皆さんは皆さんの運動感覚によって、ご自分の肉体の家に住んでいるのです(というのも、住むということは住まいのなかを自由に動きまわるということなのですから)。しかし平衡感覚の場合には、皆さんは我が家の外へと足を踏み出します。実際、それは外の世界、しかも硬い大地でなければなりません。水のなかで平衡はなかなか保てません。私たちは硬い要素の上に立ってこそ、我が家を感じるようになるのです。(…)平衡感覚は、私たち人間の本質をそのまま表現しているのです。人智学はこの本質を、自我(私)と呼んでいます。私たちの姿は私たちの自我の顕れです。なぜなら私たちは、まさにまっすぐに立って歩くからです。私たちは自我を、人間を貫くまっすぐな線として体験します。人それぞれに異なる個性も姿も、それはそのまま、その人間の自我の顕れなのです。私たちはそれを、私たちの平衡感覚において現実的に体験します!私はまっすぐに立つ、私は存在する、と。(…)

私は一方で、私独自の立脚点をもち、ある特定の場所に立つことができます。そして他方では、ある共有空間のなかで、特定の人々と一緒に住むことができます。私たちは、共に関心をもち合い、共に理解を示し合い、共に話し合い、共有する考えに従い、自分たちを互いに眺めることができます。これらはすべて、私たちの平衡感覚にかかわっているのです。(…)

なぜ人間だけが、独自の立脚点を決定することができるのでしょうか?それは、人間の平衡感覚器官が、身体を貫くまっすぐな垂線上にあるからです。では、なぜ人間だけが自分から他の事物に出会うことができるのでしょうか?それは、人間の平衡感覚が、すべてを一つの共有空間に納めることのできる、空間にかかわる感覚であるからです。(…)空間へ拡がり、空間を満たしてくれる原理、そして、それぞれが独自の立脚点をもっているにもかからず私たちに他の人間と結びつく能力を与えてくれる原理、この原理を人智学は霊我と呼んでいます。(…)

自我は霊我とのあいだには大きな違いがあります。私たちは自我を、平衡感覚を通して体験します。平衡感覚は自我のための土台なのです。私たちはこの土台によって自分の立脚点を定めます。(…)私たちは空間を充たして他の世界と結びつきますが、まさにそのことを通して、私たちは霊我と関わることになるのです。(…)自分のものにしたものは他の人間にもそのまま受け入れられるものとなるのだということ、これが霊我の大きな謎であり、不思議なパラドックスなのです。私たちは私たち独自の立脚点を定めますが、まさにそのことを通して、私たちは他の人間と互いに結びつくのです。(…)

何かが存在しているという感覚を私たちがもつことができるのは、平衡感覚のおかげです。(…)それは私たちが一つの立脚点をもっているからであり、しかも自分の内にとどまっているのではないからです。私たちは他の事物と一つの空間を共有しています。だからこそ私たちはごく簡単に、それらの事物の存在を確信することができるのです。

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」耕文社+イザラ書房/P71-85)

 私たちが生まれて直立歩行ができるようになるまでには一年ほどかかります。直立歩行できるようになってはじめて空間を支配できるようになるわけです。最初の三ヶ月で頭と首、次の三ヶ月で腕と手を自由に動かせるようになり、やがてお座りができるようになり、そうして最初の偉大なる一歩が踏み出されます。

 その直立歩行ということは、自我形成のもっとも最初の基礎になります。立って歩くことができるようになることではじめて言葉を話すことができるようになり、そのことではじめて考えるということができるようになります。そしてそうした直立歩行、言葉、思考という、人間が最初に得る能力によって、言語感覚、思考感覚、自我感覚という感覚を獲得できるようになるのです。

 さて、平衡感覚は、自我の基礎であるのだといえます。自分の立脚点を定めることができるのだということ。自分の立脚点を定めることができるということは、「私はまっすぐに立つ、私は存在する」のだといえるということです。逆にいえば、平衡感覚が稀薄になったとき、人は自分の立脚点を失い、自我を失ってしまうということになります。

 平衡感覚は、空間的な自分の位置を確認できる感覚でもあり、それによって、他者との関係性を共有できるようになります。他者と空間を共有できるというその平衡感覚によって、「私たちは、共に関心をもち合い、共に理解を示し合い、共に話し合い、共有する考えに従い、自分たちを互いに眺めることができ」るのです。

 ですから、平衡感覚がないと、他者と空間を共有できなくなります。つまり他者のことを理解できなくなるのです。パトス(受苦)という他者に対する感受性、「他人の痛みがわかること」も自分という立脚点があってはじめて可能になります。

 「我−汝」ということは、とても重要な問題を提起するものですが、「汝」ということを真にとらえていくためには、「我」ということがあってはじめて可能になります。平衡感覚によって「我」という立脚点をもつことではじめて、「汝」という他者の存在があるのだということを実感することができます。

 他者の存在があるのだということを実感することではじめて、他者と空間を共有しようという意志が生まれます。自分という立脚点があってはじめて他者理解が可能になるというのはパラドックスのようにも見え、多くの哲学者の課題ともなっているのですが、まさにその「我−汝」が同じ「空間」「場」を共有しているのだという不思議ともいえる感覚を開いてくれる、この平衡感覚を検討することからそのパラドックス理解への道は開かれていくのではないかと思います。

 また、日本人と「個」という問題に関しても、この平衡感覚と自我、霊我という観点は、多くのことを示唆しているようにも思います。日本人は、「個」という立脚点をもつというよりも、どうしても「場」という立脚点に立つ場合が多いようで、「個」と「個」が空間を共有するべく意志するというのではなく、最初から「世間」という空間が与えられているようなあり方を示すわけです。

 十二星座と感覚●平衡感覚とやぎ座

 霊我は極めて密接にやぎ座に関連しているとお感じになるでしょう。切り立つ岸壁の突起に立つアルプス・アイペックスの孤高の姿は、何という凛々しさでしょうか!(…)子ヤギはその四本の足を一点のそろえて、本当に細い杭の上にさえ立つことができるのです。子ヤギは、それは見事な平衡感覚を備えています。何の支えもなしにしっかりと立つこのようにも見事な力は、いったいどこからやってくるのでしょうか?それは、周囲の空間全体から、全自然からやってきます!そして、そこに立つ子ヤギの姿は、いわば空間の支配者の姿なのです。

 


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