十二感覚ノート5

嗅覚 -1


1999.2.28

 

 すでにご紹介した「触覚」「生命感覚」「運動感覚」「平衡感覚」という感覚は私たちに身体についての知恵と知識を教えてくれる感覚です。シュタイナーはこ4つの感覚を「身体的感覚」ないし「肉体的感覚」と名づけています。

 さて、これからご紹介することになる「嗅覚」「味覚」「視覚」「熱感覚」は、上記の「肉体的感覚」に対し、人間と世界が関わるための感覚、「魂の感覚」だといえます。

 今回はまずそのなかから「嗅覚」について見ていくことにします。

匂いを嗅ぐときには、皆さんは息を吸い込まなければなりません。外にあるものを体内に吸い込まなければなりません。触覚の場合のような境界体験はまったくありません。何かに触れるという感じは一切ありません!匂いはまさに、皆さんの不意を襲い、圧倒します。しかしそれは当然のことです。なぜなら皆さんは絶えず呼吸していなければならないからです。(…)では、そこではいったい何が起こっているのでしょうか?皆さんが実際のところ、我を忘れてしまいたがっているのです。何かの匂いを嗅いでいるとき、皆さんはご自分を、あたかも匂いでいっぱいになった袋のように感じます。鼻のなかだけで匂いを嗅いでいるとは、決して感じないはずです。(…)私たち人間の嗅覚は、感覚を麻痺させるもの、受け入れるべきでないものを、絶えずぬぐい去っているのです。

(アルバート・ズスマン「魂の扉・十二感覚」耕文社+イザラ書房/P90-91)

 匂いを嗅ぐというのは身体的な感覚ではなく、匂いを通じて世界を受けいれるのだということができます。ですから人間と世界が関わるための感覚である「魂の感覚」のひとつがこの「嗅覚」なのだといえます。

 呼吸することで人は同時に匂いを嗅ぐことになります。何かの匂いを嗅ぎたくない場合、鼻をつままないでも、鼻から息を吸い込まないで口だけで息をすることもできなくはありませんし、短時間ならばだれでもそうすることはあるわけですけど、ずっとそうしているわけにもいきません。それにそうできるのは、最初からその匂いを嗅ぎたくないと思い鼻から呼吸をしないようにしているときだけで、そうでない匂いは人をいきなり襲ってきます。

 ここで匂いを嗅ぐことで「我を忘れてしまいたがっている」といっているのはとてもおもしろい示唆だと思います。だれでも体験のあることですが、かなりひどい匂いのするところにいても人はそのうちその匂いに「慣れて」きます。でもそこに最初にやってくるとその匂いは人を襲うのです。たとえば、ぼくが実際にかなり強烈に体験したことでいうと、製紙会社のたくさんある町は町全体が特有の匂いに満たされていてその町に入ったときにはその匂いが気になって仕方がないのですが、いつのまにかその匂いのことは気にならなくなります。匂いがなくなってしまうのではなく、「忘れて」しまうのです。

 また、キツイ匂いの香水などをいつもつけている人がいますが、そういう人とエレベーターや電車などでいっしょになりますと、そのあまりの匂いに閉口して鼻で息をするのをやめるしかないのですけど本人としてはおそらくそういう匂いにいつも満たされているのでしょうからその匂いを「いい匂い」くらいにしか感じていないのだと思います。

 そういう意味では、嗅覚というのは人間の場合、とてもいいかげんで自分の呼吸しているところの匂いに対してすぐそこになじんでしまいます。まさに、「我を忘れてしまいたがっている」わけです。

 さて、犬などはとても嗅覚が発達しているようです。犬にとってはおそらく世界は匂いの地図のようになっているのではないでしょうか。でも、人間の場合、犬ほどには嗅覚が発達していません。どうしてなんでしょうか。

私たち人間は見る人間か聞く人間かに分かれます。しかし動物は、皆匂いを嗅いで生きています。要するに「目人間」と「耳人間」はいるけれども「鼻人間はいないということ」、そして動物は皆「鼻動物」だということです。(…)皆さん、本能あるいは嗅覚と、それから自由になった知性とのあいだには、大きな差があることがお分かりのことと思います。脳には私たちが失ってしまったもの、忘れてしまったものを、学び直す役割が課せられているのです。下等動物の場合には、鼻が全世界を理解します。高等動物の場合には、その鼻はずっと小さくなっています。そして人間の場合には、本能は失われ、その代わりに素晴らしい器官、脳が発達したのです。(p95-97)

 動物にとっては、ある意味では身体全体が嗅覚器官であり、嗅覚は本能そのものであって、本能は嗅覚に仕えているのだとさえいえます。たとえば、鮭は嗅覚器官を塞がれると、自分が生まれた川に戻ってこれないのだそうです。また一見匂いを嗅ぐことのできない鶏のような動物もたとえば一つの穀粒をついばむとき、穀粒を見ているわけではなく、「見るプロセスを嗅ぐプロセスに置き換えている」のだということです。それはそうした動物の脳の構造上そうなっていて、強く嗅覚=本能によって周囲の世界に結ばれているわけです。人間も胎児の頃には嗅覚器官の部分はまだ大きいにもかかわらず、次第に小さくなっていきます。

 人間は嗅覚=本能をいわば退化させていきました。そしてその代わりに脳が発達してきました。世界を理解し世界に自らを結びつける嗅覚=本能が失ってしまったものを脳を使って学んでいかなければならないわけです。そしてそれが同時に人間の可能性だということがいえます。

 コンピュータを例にとるとほとんどROMだけでRAMの容量が小さい場合、そのコンピュータは新たなソフトをインストールして新たな使い方をすることができません。ずっと以前、パソコンがやっと日本で発売され始めた頃、その20年前頃はまだ8ビットでメモリが16kとか32kでしかなくそうしたマシンが30万円近くもしたのですけどその頃、シャープでは「クリーンコンピュータ」というコンセプトを売りにしていました。今ではそれはあたりまえのことになっているのですけど、その頃はいわゆるBASICというのがROM化されていてそれをシャープがBASICのバージョンアップにあわせてマシンをその都度進化させていける「クリーンコンピュータ」というのを打ち出したわけです。実際問題としてみると、あまり役に立ったとはいえないにしても(^^;、そのコンセプトというのはとても魅力的に感じられ、それにひかれて高価なパソコンを購入したことを懐かしく思い出します。その頃はフロッピーディスクさえ装備されておらず、カセットテープを使ってデータをロードしていました。電磁メカカセットというカセットテープ制御さえもとても魅力的だったのです。

 話がすっかりそれてしまいましたが、そのように人間は嗅覚=本能による固定化した世界との関係を脱し、それを退化させ、新たに学び、世界との関係を自分でつくりだしていける脳を発達させてきたわけです。

 

 

十二感覚ノート5

嗅覚 -2


1999.3.4

 

 前回までは、基本的に前置きなのですけど、ここから、嗅覚についての本題に入ってくることになります。

 それでは、人間の嗅覚本能はもはや何の役割も果たしていないのでしょうか?もちろん、果たしています。しかも、決して過小評価するわけにはいかない役割をです。たとえば皆さん、皆さんが大なり小なり礼儀正しい人間におなりになったのはなぜなのか、お考えになったことはありますか?そのことについては皆さん、皆さんの鼻に感謝しなければなりません!皆さんは母親から「それは汚いからだめ、ぱっちい!」とか「これは美味しいわよ!」とか、しょっちゅう言われてきたのではないでしょうか?こういうことは動 物には関係のないことですが、私たち人間には学ばなければならないこととしてあるのです。何が汚いのか、何がよい匂いなのか、私たちは学ばなければなりません。(…)

 匂いを嗅ぐということのこの特別の質は、いつも意識的に受け取られているわけではありません。たとえば味についてなら、それがどんな種類の味であるのか、すぐさまいくつかに分類することができます。すっぱい、にがい、甘いなどと。しかし匂いについてはどうでしょうか。それはとても難しいことです。(…)とはいえ皆さんは、匂いをまったく分類していないわけではありません。つまり、よい匂いなのか、よくない匂いなのかを分類しています。そしてそれは、肉体的かつ精神的な衛生という観点において、極めて重要な分類なのです。(…)

このように匂いを分類することができるというのは、私たち人間にとって実に素晴らしいことなのです。このような判断には実に深いものがあるからです。善悪に関する深い概念もまた、私たちの鼻のなかに隠れているのです。これは動物の本能にとっても言えることです。動物は、彼らにとって何がよくて何がよくないのかを正確に知っています。彼らは本能的にそれを知っているのです。(P97-98)

 嗅覚は「魂の感覚」、人間と世界に関わる感覚のひとつだということでしたが、それは動物のように本能そのものとしてのものではありません。動物は生まれながらにしてその嗅覚に基づいて行動パターンが決められています。しかし、人間の場合には、それに代わるものを新たに学んでいかなければなりません。「何が汚いのか、何がよい匂いなのか、私たちは学ばなければ」ならないのです。教育ということが非常に重要になってくるわけです。

 匂いに関する調査や博物誌的なアプローチはとても興味深いもので、たとえば手元にはダイアン・アッカーマン「感覚の博物誌」(河出書房新社)、八岩まどか「匂いの力」(青弓社)、それから新刊にはピート・フローン「におい/秘密の誘惑者」(中央公論社)などがありますが、「匂いの力」には、たとえば2歳半から4歳までの幼児では、60〜80%が汗や糞の匂いを好ましい匂いとして受け取っているのだけれども、それが5歳を境にして嫌な匂いとして逆転するのだという調査実験が紹介されています。これはおそらく親の教育が直接の原因になっているのだろうというのですが、まさに私たちは匂いを学んでいるわけです。

 最近では、若い女性を中心に自己臭症が多くなっているといいます。自己臭症というのは、自分は臭いにおいを発しているのではないかと気になって仕方がないという一種のノイローゼなのですが、その原因は、他人からみて自分はどうかと考えるような他者志向型の価値観からくるのだといいますが、以前朝シャンという言葉が流行ったことがあるのもそういうところに原因があるようです。

 ここで、その自己臭症について、上記の「匂いの力」のなかに宮内泰介の「<におい>の開発と現代史」で指摘されている内容を紹介している興味深いところがありますので、それを。

日本の古い村という共同体のなかでは、彼岸の頃の線香の煙や、春の土の香り、 秋の収穫の籾の匂いといった、村全体で共有(共臭)するものとして<におい>があった。同時に、「<におい>」は社会関係を反映するものであり、もっと言えば、社会関係の束の一部でも」あったのである。

 その<におい>が近代化にともなって変容してきた。その現れのひとつに、<におい>が共有されなくなった、もっと厳密には共有のありようが再編されてきたことがあげられる。つまり、「<におい>が共有化されない傾向が強まり、その結果、共有化されない<におい>への不安、共有化されないゆえの<におい>へのおそれから自己臭症が生まれた」というのである。現代人は、他者と何らかの社会関係を取り結びたい、<におい>を共有化したいと強く願っている。ところがどうすれば共有化できるのかわからない、どういう状態が共有化された状態であるのかもわからない。その不安から、自分の匂いを完璧に消し去ろうという方向へと向かうのである。その点では、宮内氏が指摘するように、自己臭症は、「多くの現代人が多かれ少なかれ有している『症状』である」ということができる。さらにいえば、自分の匂いを消す努力を共有することが、現代人にとっての<におい>の共有化のプロセスとなったということでもある。だからこそ、「くさい」という言葉を投げかけられたときの衝撃は大きく、投げかけられた人に深刻な影響をもたらすことになる。それは、他者と結ばれた回路を切断されることを意味するからである。(P198-196)

 「何が汚いのか、何がよい匂いなのか、私たちは学ばなければ」ならないのですが、その「学ばなければならない」ということが、「社会関係を反映する」わけで、それが「共有化」できにくくなっている現代の病を形成しているともいえそうです。人は「におい」というもっとも原初的な感覚を他者と共有しようと望みながら、それができなくなると、今度は「におい」を発さないということによって、他者との回路を結ぼうとしているわけです。

 それがどういう結果をひきおこすことになるのかはわからないのですけど、その匂うということを学ぶことが、「善悪」についての深い概念と関係してくるということと関連づけて考えると、いろいろ考えさせられます。

私は、感覚はすべて真の導師であると述べました。少なくとも真の導師でありうるのだと。私たちはいつも、何ごとかに対して見なかったり聞かなかったりすることはできます。しかし嗅がないでいることはできるでしょうか?聾や唖という言葉はありますが、匂いを嗅げないことに対応する言葉はあるでしょうか?少なくとも私は知りません。この領域には、このように不思議な側面もあるのです。すべてが、より無意識的に経過します。しかし皆さんは、私が今まで述べてきたことから、私たち自身の道徳性の基盤は匂いを嗅ぐ領域にあるのだと予測することができるでしょう。私たちはいつも判断していかなければならないということ、これこそが嗅覚のもつ根本的な特徴なのです。私たちは絶えず、私たちの心理的深層で判断しつづけているのです。私たちの話し言葉には、こうしたことを明らかに示す実に卓越した表現があります。たとえば私たちは言います。「自慢話は臭い!」と。また、事柄に何か不明瞭なところがあるような場合には、「それはうさん臭い」と。 (テキスト/P98-99)

 上記でご紹介した「におい/秘密の誘惑者」には、嗅覚障害についての紹介がありますけど、たしかに聾や唖などにあたる言葉はないようですね。それに、嗅覚の専門医というのもないようです。

 だからといって、嗅覚が重要でないかというとそうではなくて、「自慢話は臭い!」とか「それはうさん臭い」という言葉にも表現されるように人は匂いをかぐことが「私たち自身の道徳性の基盤」ともなっているということに注目する必要があるようです。

 先ほど、自己臭症についてのご紹介をしましたが、そういう自分の匂いを異常なまでに気にするようになるということは、無意識のうちに、「私たち自身の道徳性の基盤」そのものについて、非常な不安感に陥っているのではないかということが予想されます。かつては、共同体において共有されていた「におい」の基盤が希薄になり、みずからの「道徳性の基盤」が個人化されるのに伴って、そこに非常な不安が生まれているのだともいえそうです。

 

 

十二感覚ノート5

嗅覚 -3


1999.3.19

 

 少し間が開きましたが、「嗅覚」について続けます。

鼻をもっているのは人間だけです。ご存じでしたか?鼻をもっているのは人間だけなのです。極めて簡単な事柄に私たちは往々にして気づいていないものですが、人間だけが鼻をもっているということは、実際、特筆に値することです。

高等動物はすべて、脳から分離した嗅球はもってるのに、鼻は、分離していません。これはとても興味深いことです。皆さんは動物の鼻について話すことはできません。なぜなら彼らの場合は、上唇と嗅覚器官が全体的に融合しているからです。要するに、動物がもっているのは鼻口部あるいは鼻づらなのです。(P101-102)

私たちの道徳的感情が由来する器官は、ある特定の場所を占めています。そしてその場所は唯一、鼻でなければなりません。なぜなら人間は、そこではじめて人間になるのですから。揺りかごから墓場へと到るまでに、私たちの鼻の形も、私たちの個性と共に変わっていきます。鼻は、人間的なのです。 (P104)

 動物は生まれながらにしてその嗅覚に基づいて行動パターンが決められているのに対し、本能としての嗅覚をいわば退化させてきた人間は「何が汚いのか、何がよい匂いなのか、私たちは学ばなければ」ならないということを見てきましたが、それとは逆に、「鼻」という観点でいえば、「 鼻をもっているのは人間だけ」だということに注目する必要があります。動物の鼻のように見えるのは「鼻口部あるいは鼻づら」なのだということです。

 本能としての嗅覚は退化したものの、ある意味では退化することによって、本能としての嗅覚ではなく、それに代わって新たな高次の能力としての嗅覚を発達させようとしているのだということもいえるのではないでしょうか。それは、人間が古代に有していた霊的能力を失う代わりに思考能力を獲得してきたというような進化なのだといえるのかもしれません。

そもそも私たち人間も、かつてはやはり嗅ぐ存在でした。人間も嗅ぐ存在の段階を通過してきたのです。そしてそのような状態は、次第に後方へと押しやられなければなりませんでした。私たち人間は、自由を獲得するために、本能を失わねばならなかったのです。かの嗅球は大脳から隔てられ、今日の大きさまで収縮しました。それは、未来においても再び変化していくことでしょう。

 では、どのように変化していくのでしょう?ーさて皆さん、オイディプスの物語に正しく耳を傾けるなら、すでにそこから、あるイメージを受け取ることができます。ある日スフィンクスの前に立ったオイディプスは、スフィンクスの次のような問いかけに答えなければなりませんでした。「最初は四本足、次に二本足、最後に三本足になるものは何か?」オイディプスはすぐさま答えます。「それは人間です!」と。なぜでしょうか?これに対する通常の説明は次のようなものです。つまり、人間はまず四本足で這い、次いで立ち上がって二本足で歩くことができるようになり、年老いて杖をついて歩くようになる、と。(…)すべての神話にはそれぞれの民族に向けた説明と、極めて深い解釈があるはずなのです。ですから、オイディプスとスフィンクスの物語にも秘教的な背景があるはずなのです。(P104-106)

 人間は本能を失ってきましたが、それは「自由」を獲得するためでした。本能は、生まれながらにして有している高次の能力で、新たに学習する必要はありませんが、それゆえにその本能の部分が大きければ大きいほど、新たに学習する余地が少なくなってしまいます。ほとんどROMだけのコンピューターを想像してみればそれがわかります。それは決められたことを決められたやり方で効率よく処理することはできますが、新たにシステムをバージョンアップし、新たなニーズに対応していくには適しません。

 自由と学習能力というのは密接な関連があるように思います。新たに学ぶ可能性ということは、試行錯誤の可能性ということですから、決められたことを確実にこなすためには非効率ではあります。けれども、そうした間違う可能性というのは、まったくあらたなものを創造する可能性ということでもあるわけです。

 人間は、嗅覚=本能を失うことで、その本能を新たな進化に向け、新たな器官をつくりだそうとしているのだといいます。

人間は、人間に残された最後の本能、本能の脳の最後の組織としての嗅覚があるというところにこそ、新たな器官を創り出すべく働いているのです。私たちはその器官を二枚の花弁の蓮華あるいは額のチャクラと呼んでいます。(P107)

 そのことを暗示しているのが、上記の引用にもあるような「オイディプスの物語」だということができます。人間は「最初は四本足、次に二本足、最後に三本足に」なるという物語の謎です。それはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。そのことを見てみることにしましょう。

 現在の人間は、「二本足」で歩いていますが、かつての時代、古アトランティスの人間は、「四肢存在」だったのだといいます。その時代の人間にはまだ性別がなく、水のような状態の世界を四肢で泳いでいたというのです。その後現在のような硬い大地が生まれ、空気が存在するようになり、人間は大地を二本の足で歩くようになりました。そして、やがて「三本足」の人間へと進化していくのだといいます。その「三本足」のうち「二本」が「二弁の蓮華」であり、もう「一本」が「前進するための器官としての左手」なのだというのです。なんだか、あまりぴんとはきませんけど(^^;、「二弁の蓮華」が未来の人間の「二つの新しい「手足」」となり、それが「善と悪とを見分けるための方向器官、内なる羅針盤」となる。「オイディプスの物語」のなかで語られている「三本足」の人間とはそういう未来の人間のことをいっているのだということです。

地球上の事物は現在の状態にとどまるわけではありません。地球はすでにさまざまな段階を通り抜けてきましたし、これからも通り抜けていきます。(…)未来においては、すべてがより多く水を含み、より柔らかくなっていくことでしょう。私たち人間は、アトランティス文化期が反映している状態を体験するようになるのです。もちろん、人間は、かつての姿に立ち返るわけではありせん。そこには当然、メタモルフォーゼが生じるはずだからです。私たちは再び泳ぐ存在となっていくでしょうが、とはいえかつてのような四肢を備えた存在になるのではなく、私たちの身体の左側だけからなる存在になるでしょう。頭部を含んだ左体側のすべてが残されることになるのです。(…)左手、つまり宇宙的な手は下方へ移動し、現在の足の位置を占めるでしょう。皆さん、魚の尾びれを思い描かれたらよいかもしれません。私たち は、私たちの左手で舵をとるようになるでしょう。しかし、そのときには同時に、蓮華の二枚の花弁も成長しているはずです。それは、人間の今日的知性が克服された時点で、二つの新しい「手足」となり、私たちはそれをもって、まったく新しい世界へと自分自身を位置づけていくようになるでしょう。それは、善と悪とを見分けるための方向器官、内なる羅針盤となるでしょう。現在の私たちが、私たちの過去、私たちの経験に由来する一種の良心をもっているように、新しい良心が私たちの未来からやってくるでしょう。私たちはその新しい良心と共に、新しい領域へと歩を進めていくようになるのです。そしてこれこそが、オイディプスの物語のなかでえ語られている未来の人間像なのです。(P108-114)

 さて、嗅覚は本能から未来への重要な器官へと変容していくのだということを見てきましたが、その重要性は、「自由の哲学」にも述べられているような「倫理的ファンタジー」ということと深く関わっているように思います。外から押しつけられた決まり事としての外的道徳ということではなく、みずからの内的意志からくる倫理性ということです。それの内なる倫理性は、一人ひとりが自由に創造していくものであって、「そうしなさい、そうあるべきである」というふうに強制されるものではありません。そのために重要なのが、「意識魂」であるということができます。「悟性」はなにかを理解するためには重要ですし、欠かすことはできませんが、それだけだと、たとえば「知識」は「知識のための知識」でしかなく、それが感覚と結びついて洗練されたとしても、それはいわば「羅針盤」を失って彷徨うしかなくなってしまいます。自らが自らを「羅針盤」としていくこと、それが「意識魂」の重要課題です。

現在の私たちは意識魂の時代に生きています。この時代にいる人間は、何ごとかを体験するたびに、それが善であるのか悪であるのかを判断する任務を負っています。何らかの事柄に沿いつつその効率の善し悪しを判断するのではなく道徳的責任を伴う判断を下す任務を担っているのです。

 核エネルギーの問題にしても、あるいは環境汚染の問題にしても、もはや私たちは今までのように、私たちの大脳の為すがままにしておくわけにはいかなくなっています。まさにそれらの問題は、効率の善し悪しの問題ではなくなっているのです。このように考えるなら、今日ではすべてが道徳的な価値にかかわっていることが分かります。私たちは、物事にまさに道徳的にかかわっていかなければならないのです。これが意識魂の特徴です。人間は新たに、自ら獲得する本能、新たな嗅覚器官を培っていかなければなりません。つまり、二枚の花弁の蓮華をです。私たちの未来は、このことに依存しています。(P114-115)

 ここでいわれている「道徳」は、最初からあるもの、与えられるものではなく、自らが創造していく倫理のこと。そのために、嗅覚は本能を離れ、二弁の蓮華へと変容していくことになります。本能としての嗅覚をいわば退化させた人間は「何が汚いのか、何がよい匂いなのか」「学ばなければ」ならなくなりましたがその学ぶことは、意識魂によって鍛えられていかなければなりません。

 さて、最後に、十二星座のなかで、「嗅覚」はどれにあたるのでしょうか。嗅覚は「みずがめ座」に関連しているのだといいます。

私たちが嗅覚について語ってきたことは、みずがめ座に関連しています。みずがめ座は獣帯のなかの人間の像なのです。私はすでに、鼻は人間的である、鼻は人間であると言いました。自然にまるごと結びつけられている本能から独自に判断する個我へと到るまでの進化過程が、この器官に刻印されているのです。この器官医は、新たに形成されつつある器官、つまり二枚の花弁の蓮華と共に、善と悪とを見分けられるようになるために最後まで残された本能としての嗅覚能力が与えられています。そして、この新しい器官をもって善悪を判断することができるようになれば、人間は大地を水で潤す能力、大地を救う能力をもつようになるでしょう。みずがめ座は、進化していく人間の似姿なのです。(P116)


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