ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

1 理解


2002.2.6

 

         理解は、われわれが自分でそれを妨げてしまえば、可能にならない。
        特に、誤った自然観に基づく「認識の限界」という時代の偏見にとらわ
        れてしまえばである。
         霊的認識はすべて、内密な魂の体験の中で生じる。霊的直観そのもの
        がそうであるのではなく、見霊的でない通常の意識が霊視者の体験に向
        き合う際の理解力もまたそうなのである。
         その理解力のことを、ただ自分でそう思いこんでいるだけだ、と安易
        に断定する人は、魂のこの内密さをまったく知らないでいる。
         事実、物質界については、概念的にその理解の真偽を論じることがで
        きるが、霊界の場合には、もっぱら体験するしかない。
         霊視は、まだ見霊能力のない通常の意識によっては理解できない、と
        いう主張に影響されてしまえば、その気分が黒雲のように理解力を曇ら
        せ、理解することが本当にできなくなる。
         しかし見霊能力がなくても、とらわれぬ意識を持つ者にとって、見霊
        者の思考形式を通して表現された霊視内容は、完全に理解可能なのであ
        る。画家でない人が、画家の完成した作品を理解するのと同じように、
        理解できるのである。しかも霊界の理解は、芸術作品のように、芸術的、
        感情的な理解を必要とするのではなく、自然認識の場合と同じように、
        もっぱら思考の働きによってなされる。
        (「十六版から二十版までの序章」P30)
 
霊的能力がなくても、ちゃんと思考さえできれば、
霊的認識について表現されたものは理解可能である。
ということをシュタイナーは随所で言っている。
 
これはもちろん、霊的認識をはなから否定してかかる人が
いかにみずから理解を閉ざしているかということでもあると同時に、
霊的な能力があると自認している人のいうことも
チェック可能であるということでもある。
また、霊的なものや精神世界の好きな人が
思考を欠如させていることがいかに危険かということでもある。
 
要は、ちゃんと思考の可能性を閉ざさないでいることが
なによりも大切だということだといえる。
 
霊的なものの認識にかぎらず、どんなことに関しても、
自分がいかに自分で「理解」を拒んでいることが多いか、
ということに少しでも気づくことさえできれば、
自分がまさにいかに「無明」かということがわかる。
目をあければ見る可能性があるのに、
自分で目を瞑ったまま、見えるわけがない、といっているようなもの。
「認識の限界」とかいう前に必要なのは、
自分がどこで目を瞑ってしまうかを
自己観察してみることではないだろうか。
 
人は多く、「できない」と「しない」を混同する。
というか、その違いをごまかしたがる。
たとえば、鳥のように空を飛ぶことは「できない」けれど、
早起きすることは「できない」のではなく「しない」のだ(^^;)。
シュタイナーを読むことも「読めない」のではなく、「読まない」のだ。
人はすぐに今この場で簡単にできないことを
「できない」ということを好む。
たしかに「今すぐ」「できない」ことはたくさんあるけれど、
もし「したい」のであればそのうちにできるようになることはある。
けれど「したくない」ことはおそらくできるようにはなりにくい。
鳥のように空を飛ぶことは、飛びたいと思っても飛べないけれど。
 
この引用部分の少し先のところに、
この『神秘学概論』を読み進めるにあたっての
基本的な心構えのようなことが書いてある。
 
         私はまったく意識的に、「誰にも分かる」表現ではなく、集中した
        思考を働かせて無いように向かわざるをえないような表現をするよう
        に努めた。だから、私の著書は、読むこと自体が、すでに霊的修行の
        はじまりとなるような性格を示している。実際、このような書物を読
        むのに必要な、慎重で平静な思考作業こそが、魂の力を強め、霊界へ
        の接近を可能にするのである。
        (「十六版から二十版までの序章」P32)
 
つまりは、今はなかなか読みにくいし、
わからないことが多いかもしれないけれど、
それはずっとわからないままだということではないということ。
「慎重で平静な思考作業」を続けていくことが、
「理解」のための前提条件になるということである。
逆にいえば、そういう作業なしでは、
なにも始まらないということでもある。
ノウハウ本のようなものとの違いがそこにはある。
知識を与えてもらう、というような単純なものではなく、
読むということそのものが、
みずからがみずからを育てていくことでもあるということ。
だから、教えてもらうのではなく、まさに「自己教育」なのだ。
 


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