ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

10 霊的認識のひとつの出発点


2002.2.21

 

         誰かが手を上げる場合、この行為に対しては、二通りの考察の仕方が
        可能である。腕そのものの他の器官の機械的な構造を調べて、純物理的
        なその経過を記述することができる。しかし人間の魂の内部で、手を上
        げさせようとしているものに、霊的な眼差しを向けることもできる。
         霊的な知覚によって訓練された研究者は、後者のような仕方で、すべ
        ての感覚的=物質的な経過の背後に、霊的な経過を見ている。地球とい
        う遊星のすべての素材における変化が、その研究者にとっては、素材の
        背後に存する霊的諸力の開示なのである。
        (P143-144)
 
私が水の入ったコップに手をのばす。
その行為の「純物理的」な経過の記述をすることでは、
なぜコップに手をのばしたのか、ということはわからない。
喉が渇いていて水がのみたかった、
だれかに「そのコップの水とって」と頼まれた、
ということを語ることはできるが、
それを物質的な経過として述べることは困難である。
 
そうしたかったらそうした。
そんなにあたりまえのように思えることでも、
ほんとうはあたりまえのことではないことに気づくことから、
神秘学ははじまるのかもしれない。
 
また、何かが存在するということを証明することさえも困難である。
 
         事実そのものに対しては、単なる論理的根拠からだけでは、何も反駁
        できない。このことは、わざわざ強調するまでもないであろう。鯨が物
        質界に存在するか否かを、論理的に証明することはまったくできない。
        それには、眼に見なければならない。
        (P148)
 
眼に見えるということさえも、存在証明にはならないのはもちろんである。
そして、この私が存在しているということさえも、
論理的にそれを行なおうとしても徒労に終わる。
論理においてできることとできないことがあるということがそれでわかる。
まして私がなぜ存在しているのか、などという問いは
そう問うことそのものが多くの場合、意味を持ち得ないことである。
 
倫理を論理化しようとする試みなども、
交通安全のために設けられた交通信号や標識の意味を説明することを超えない。
それはある目的のために決められたルール集でしかなく、
そのルールは、ただそのように決めてあるというだけのことにすぎない。
 
現在、遺伝子操作や臓器移植などが、
「生命の尊重」などの美名の仮面をかぶった科学者の好奇心のために、
事実上、推進されているが、
そこでなされている「純物理的」な操作に対して、
そこで論義されている「倫理」のなんと稚拙で無力なことだろうか。
 
それはまるで、喉が渇いているからコップに水をくんで飲みたい、
ということが禁じられた状態で、(それを問えないことになっている)
それを「純物理的」な経過として語ることをもっぱらとし、
あとはつけたりのように、よくわけのわからない理由を
とりあえずつけてみているだけのような状態である。
「その手は水の入ったコップに近づくと自動的にそれをつかもうとする」等とか。
 
そのようなことをあれこれ考えていくと、
自分が日々行なっているさまざまなことが
いかに自分でよくわかっていないかということがよくわかるし、
それを少しでも説明可能にするには、
現代の思想や科学はあまりにも無力である。
にもかかわらず、科学技術の一側面だけが膨張し、
さもそれが万能であるかのように思い込まれている。
 
だからといって、すべてを神秘めかして語ることでは
何も解決されることはないだろうし、
現代ではそれは単なる退行を意味することになる。
宗教的な営為にしても、その点においては同様である。
多くそれらは自分に与えられる自動化するためのソフトウェアにすぎない。
 
そうならないための認識的基礎が
現代においては痛切に求められている。
その一つの可能性が人智学なのではないだろうか、
というところが、出発点になる。
そしてそれは、信仰でも慣習でもなく、認識からの出発である。
 
 


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