ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

11 思考・自由・精神科学


2002.2.25

 

         超感覚的な認識が語る事柄の中へ、純粋な思考を通して参入する人は、
        まだ見たことのない物質現象についての話をきく人と同じ事情にある、
        とは決していえない。この点はまったく明らかである。なぜなら、純粋
        な思考は、それ自身がすでに超感覚的な活動だからである。
         感覚的なものは、それ自身によっては超感覚的な事象にいたることは
        できない。しかしこの思考が、超感覚的な直観を通して物語られた、超
        感覚的な経過に向けられるならば、その思考の力は、自分自身によって、
        超感覚的な世界の中にまで成長していく。そもそも超感覚的な認識につ
        いて述べられた内容を、思考を通して把握しつつ、高次の世界へ参入す
        ることは、超感覚的な領域の知覚能力を獲得するための最上の道のひと
        つなのである。このような道を進むことは、思考の明晰さと結びついて
        いる。それゆえ、霊学研究の特定の方向は、この思考を、すべての霊学
        的な修行のもっとも堅実な第一段階である、と見なしている。
        (P148-149)
 
シュタイナーの主著といえば、『自由の哲学』、『神智学』、
『いかにしてより高次の世界の認識を得るか』、
そしてこの『神秘学概論』が挙げられることが多いが、
そのなかで『自由の哲学』が位置づけられるのか、
つまり、シュタイナーの精神科学のなかで、
なぜ『自由の哲学』が重要なものとされているのか、
また、少なくともそれらの関係については、
あまり理解されていないように思われる。
 
『自由の哲学』では、「思考」の重要性が説かれているのだけれど、
それは、知覚内容と概念を結びつける直観的な思考体験によって
真の現実を認識することができるということである。
思考は、主観的でも客観的でもなく、
「現実の両側面を包括する原理」であって、
それによって、私たちはいわば「彼岸的なもの」から行動するのではなく、
「自分の道徳的想像力が与える自分の目的」に従うことができる。
つまり、神様だとか、「そういうものだ」という道徳だとか、
そういうことからではなく、自分の意志で行動することである。
ゆえに、人間は自由でありえるのだということがいえる。
 
人間は「思考」によって自由な存在となる可能性を有している、
といふうにいうことができる。
そうでなければ、精神科学は自由を持ち得ない啓示宗教のようになってしまう。
 
しかし、ここでいう「思考」は、容易に誤解される。
クリシュナムルティやバグワンといったインド系からは、
その「思考」はいわばそれを落とすべきもの、
その罠にはまらないようにすべきもの、として説かれることが多い。
その場合の思考は、決して「自由」なものではありえないのだけれど、
シュタイナーのいう「思考」はむしろ自由の根拠となっている。
シュタイナーの精神科学が「神秘主義」ではないというのも、
そこが大きな鍵となっている。
シュタイナーの精神科学は、決して過去へ向かうものではなく、
現代、そして未来において、その認識方法が
いかに重要であるかということも、そこにポイントがある。
 
『神秘学概論』においても、最初に「神秘学の性格」ということで、
それが、科学が通常の対象としているものを対象とはしていないものの、
精神科学がいかにwissenschaftlich科学的かということが強調されている。
むしろ、通常の科学的営為における認識が、素朴実在論的であって、
その認識そのものの在り方が真に検討されることが
あまりにも少ないということも示唆されているように読める。
 
そういう意味でも、シュタイナーがまずその精神科学の基礎として
強調しておく必要があったのが、「思考」、
つまりは「直観的思考」だったわけである。
その意味で、精神科学における『自由の哲学』や『哲学の謎』などの著作の
重要性が常に示唆されていたということがいえる。
 
『自由の哲学』の「1918年の新版のための補遺の2」にも、
その「直観的思考」について上記引用と
関連していると思われる点が示唆されている。
 
        思考の中には人間が現実の中へ精神的に参入することのできる要素があ
        る。…けれども他方また、本書の精神全体から、知覚要素が思考によっ
        て把握されたときにはじめて現実の内容となり得るという立場が明らか
        になる。思考の外には、現実と呼べるものは存在しない。したがって感
        覚的知覚だけが現実を保証する、と考えてはならない。知覚内容として
        生じるものを、人間は人生の途上で期待し続ける。しかし次のように問
        うことはできる。「直観的に体験される思考の観点からみて、人間が感
        覚的なもの以外に精神的なものを知覚できると期待してもいいのか」。
        このことを期待していい筈である。なぜなら直観的に体験される思考は
        確かに人間の精神活動ではあるが、同時にそれは感覚器官なしでも把握
        できる精神的な知覚内容だからである。それは知覚する人自身がそこで
        活動しているところの知覚内容であり、自己活動が同時に自己知覚され
        ているのである。直観の中で体験される思考においては、知覚する人間
        が精神界へ移されている。われわれは知覚としての世界の内部で、自分
        の思考が産み出す世界を、精神的知覚世界として認識する。この知覚世
        界と思考との関係は、感覚的知覚世界と感覚との関係に似ている。それ
        を体験する人間にとって、精神的知覚世界にはどこにも未知の部分が存
        在しない。なぜなら人間は直観的な思考の中で、すでに純精神的な性格
        をもった体験をしているからである。このような精神的知覚世界につい
        ては本書が出版された後で出版された数多くの私の書物が取り上げてい
        る。 『自由の哲学』はそのような後期の著作のための哲学的な基礎づけ
        である。なぜなら本書は正しく理解された思考=体験がすでに精神=体
        験であることを示そうと試みているからである。
          (イザラ書房・高橋巌訳より/P284-285)
 
シュタイナーが、数学のような
「対象のない思考」を重要視していることも、
それはここで述べられているような「直観的思考」と
深く関係しているためであるように思う。
 
この「対象のない思考」が可能でないかぎり、
人間は「自由」であることはできない。
人間は多く外的に対象のあるさまざまなものからの
リアクションのような行動パターンをもっていて、
「彼岸的なもの」から行動してしまうのもそれと無関係ではない。
「天国」や「地獄」のイメージも外的世界のアナロジーとしてでてくるように。
 
そういう意味でも、『神秘学』の内容を理解しようとすれば、
たとえば多く理解困難が指摘されるような
土星紀、太陽紀、月紀、地球紀などのような進化期の理解にしても、
「対象のない思考」が必要となってくる。
日常的な外的対象を知覚するようにすることでは、
おそらくそれらを理解することはかなり困難だからである。
 
そのための最初の入口として、
また「対象のない思考」「直観的思考」を育成するための
ひとつの訓練としても、
『自由の哲学』が重要だといえるのだと思う。
 
 


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