ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

17 土星紀 2 :熱状態以前「持続」


2002.3.5

 

土星紀の中期は「熱状態」で、
それが肉体の萌芽ともなったということだけれど、
「それ以前」はどうだったのだろう、という疑問もでてくる。
この項では、それについて、ぼくなりに考えてみたい。
 
シュタイナーは、土星の熱状態とともにはじめて「時間」が現われ、
そして「それ以前」は「持続」と呼ぶ状態だった、といっている。
「それ以前」というのが成立しないということでもある。
 
         熱の状態以前の土星進化は、どのような状態にあったのだろうか。そ
        の進化は、外的な感覚が知覚できるような何かとは、全然比較できない。
        現在の人間の内面世界においてしか体験できないような状態だけが、こ
        の熱の状態に先行していた。外からの印象をすべて排除して、魂そのも
        のの中で形成されるイメージだけに没頭する人は、肉体の感覚器官では
        なく、霊的直観によって知覚できるような何かを自分の中に見出す。超
        感覚的な知覚のみに開示されるような諸状態が土星の熱状態に先行して
        いる。
         そのような状態を三つあげることができる。外から知覚できない純粋
        に魂的な熱、外からは闇でしかない純粋に霊的な光、そして最後に、自
        分自身において完成しているので、自分を意識するのに外の存在を必要
        としない霊的本質存在の三つである。純粋に内的な熱は「運動霊」の現
        われを伴う。純粋に霊的な光は「叡智霊」の現われを伴う。純粋な内存
        在は「意志霊」の最初の流出と結びついている。
        (P175)
 
         土星の熱の出現と共に、われわれの進化は、内面生活から、純粋の霊
        性から、外に顕現する存在の中へはじめて入っていく。このことを受け
        容れるのは、現代人の意識にとって特別難しいことだが、「時間」と呼
        ばれるものが土星の熱状態と共にはじめて現われるということも、ここ
        で述べておかねばならない。それ以前の諸状態は、まったく時間の経過
        をもたなかった。それらの状態は、霊学が「持続」と呼ぶ領域に属して
        いる。それゆえ、本書が「持続の領域」内の諸状態について述べる場合、
        時間に関わる表現はすべて、もっぱら理解を容易にするために用いられ
        ている、と考えねばならない。
        (…)
         知的な態度だけからすれば、どんな起源に対しても、さらにその「起
        源の起源」を問い続けることが当然可能である。けれども、事実そのも
        のに立脚しようとすれば、そうできなくなる。(…)
         本当に正確な見方をしようとすれば、「どこから」についてのすべて
        の問いが、上述した土星紀最初の状態以上には遡りえないことを、観取
        できるはずである。なぜなら、もはや事物も事象もその由来をそれ以前
        の何かによってではなく、自分自身によって説明しうるような領域に至
        ったのだからである。
        (P175-177)
 
「時間」とはいったい何なのだろう、
という疑問が当然のことながらでてくる。
 
以前から何度か引合にだしている東理論では、
「意識」は「生き物」である「時間」によってできているという。
「意識」が「時間」を「空間」に変換するというのである。
従来の物理学では、時間と空間は同等に扱えないものとしているが、
それに対して、東論では、「意識」=「時間を空間に変える変換装置」、
つまり、「意識」を「時間」の「空間」への変換の関数としている。
 
さて、このことを参考にしながら、
熱状態の出現とともに時間が発生したということは
いったい何を意味するのかを考えてみると、
意識が原初的なかたちであれそこに生じたということによって、
時間が発生したということがいえるのではないだろううか。
 
人間は土星紀において昏睡意識(今日の鉱物の意識)を獲得した
と述べられているが、
その意識の誕生が「時間」を発生させたということがいえる。
ということは、意識の在り方によって、
「時間」そのものが異なってくるということでもある。
 
本川達雄さんの「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公文庫)には、
動物には動物のサイズによって変わるそれぞれの時計がある
ということが述べられているが、
サイズよりも意識の違いというのが、
決定的に時間の性質そのものの違いともなっていると考えられる。
人間の時間、動物の時間、植物の時間、鉱物の時間と大きくわけると、
それぞれの時間には大きな違いがあることがわかる。
 
さて、では熱状態以前の「持続」というのは
いったいどういう状態なのだろうか。
「もはや事物も事象もその由来をそれ以前の何かによってではなく、
自分自身によって説明しうるような領域」であるということは、
ある意味では、「永遠の今」にも通じているのかもしれない。
 
ちなみに、西田幾多郎は、時の中心は現在であって、
その現在の意味を尋ねれば自我とはなにかがわかる。
そして現在が我の中心である、と言っている。
「現在の自己限定が即ち我の自己限定」で、
個体というのは、全体から定まるのではなく、
それは「我」によって定まる、
自我の限定によって個物が可能になるというのである。 
 
そして、「永遠の今」について次のように述べている。
 
        真の時は連続線と考えられている。しかしそれは空間化された時にすぎない。
        真の時は各瞬間に於て消え各瞬間に於て始まるのである。各瞬間に於てすべ
        ての過去を消し、すべての未来を始め得る。プラトンが『パルメニデス』に
        いうように、瞬間は時の外にあり、そこに於て運動は静止に変じ静止は運動
        に転ずるのである。時は実にかかる瞬間の自己限定としてきまるのである。
        従って時は消えて生ずるものの連続であり、点から点へ瞬間から瞬間への飛
        躍的な連続である。時は矛盾に於て成立する。時は弁証法的である。時は無
        限に変じつつ、無限に変じない。すべての時は絶対の無に於て消えて絶対の
        無に於て生まれるのである。絶対の無は変じない。そこに永遠の今がある。
        「時は止まる」と言われる所以である。現在が現在を限定する時に、限定す
        るものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるので
        ある。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をもつものが即ち永遠の
        今なのである。かかる永遠の今のいずれの点に於ても時は消えて又新たに生
        まれる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から
        見られた時、それは一つの点に収まるとも考えられる。その一点がすべての
        運動をつつむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。
        それ故に種々なる時は場所の意味をもち、空間的な意味をもつ。ここに
        Ortzeitが認められる所以がある。
        「生と実在と論理」(昭和7年、京大における講演)より
        * Ortzeit/場所である時間
 
『神秘学概論』では、熱状態において人間の肉体の萌芽が生まれ、
それとともに、現在の人間でもまだ萌芽としてしか存在していない
「霊人」への最初の萌芽が与えれたとも述べられています。
 
         意志霊の影響を受けて、人間幻像そのののが、この上なく単純で、暗
        いものながら、意識形態をとって現われるようになる。この意識形態を
        理解するには、夢のない眠りよりもさらに暗い意識形態を考える必要が
        ある。
         現在の地球の状態においては、鉱物がこのような意識をもっている。
        それは内的な存在を外なる物質世界と完全に一体化させる意識である。
        土星紀には「意志霊」が、この一体化を統御している。そしてその結
        果、人間は、土星生命そのものの複製であるかのように現われる。土
        星生命が大規模に示しているものを、この段階における人間は小規模
        に示している。
         そしてそれと共に、現在の人間においてもまだ萌芽的にしか存在し
        ていないもの、つまり「霊人」(アートマ)への最初の萌芽が与えら
        れた。超感覚的な認識能力にとって、この暗い人間意志は、(土星)
        の内部へ向けては「嗅覚」と比較されるような作用となって現われる
        が、その同じ作用が外なる天空へ向けられると、まるでひとつの人格
        のような現れ方をする。しかしその人格は、内なる「自我」によって
        導かれているのではなく、機械のように、外から制御されている。そ
        してその制御の主体が「意志霊」なのである。
        (P174)
 
意志霊によって制御されていたとはいえ、
人間ははじめて「個体」として存在しはじめるようになり、
それによって「時間」が生まれた。
そしてそれ以前の「持続」としての「永遠の今」を
現在、そして未来の人間においては
「内なる自我」からのものとしてとらえることが
可能性として開かれるようになった、といえるのかもしれない。
 
 


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