ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

2 神秘学


2002.2.6

 

         本書が求めている読者は、一つの言葉が、さまざまな事情で、偏見に
        さらされても、公正さを失わないでいられる読者である。運命の恩寵を
        受けた、特別の人びとにのみ許された「神秘の」知識が問題なのではな
        い。本書が扱うのは、ゲーテが宇宙現象の中に「開示されている秘密」
        がある、と述べたときの「秘密」である。感覚並びに感覚に結びついた
        悟性だけで認識するとき、宇宙現象の中に「神秘のもの」、開示されぬ
        ものが残る。この残されたものが、超感覚的認識の内容となるのである。
         感覚とその感覚に仕える悟性とが明示しうるものだけを「学」と見な
        す人にとって、本書の意味での「神秘学」は当然、科学たりえないだろ
        うが、よく考えてみれば、その立場は根拠あるものではなく、個人的な
        感情に発する独断に従っているにすぎないことが分かる。科学がどのよ
        うにして生じ、それが人生にとってどのような意味をもつのか、考えて
        みよう。科学の成立は、本質的には、科学の研究対象に即してではなく、
        科学の研究方法に即して、認識されねばならない。科学を研究するとき
        の魂がどのような在り方を示しているのか、に眼を向けなければならな
        い。感覚的に把握されうるものだけを考察する態度に慣れてしまうと、
        この感覚の開示こそが本質的なのだと考えてしまう。そして、人間の魂
        が、その際、まさに感覚の開示だけに向けられているという事実を意識
        できなくなる。
         しかし、そういう魂の自己規制から脱け出して、研究対象を特定の領
        域に限定しなくなれば、この特別の場合以外のところにも、科学研究の
        可能性を見出すことができるようになる。本書が非感覚的な宇宙内容の
        認識のために、「学」という言葉を用いる理由は、まさにここにある。
        人間の思考は、この宇宙内容に対しても、自然科学が対象とする宇宙内
        容に対するときと同じ態度で、研究活動を行なうことができる。
        (P38-40)
 
科学が科学主義になってしまうのは、
科学という研究方法に即することではなく、
研究対象を限定しその限定されたなかで現われてくることだけを
研究しようとするからではないだろうか。
 
「主義」というのは、おそらくそうした傾向を持ち、
自分の見たいもの、考えたいことだけのなかで、
独善的とでもいえる一貫性やそれに都合のいい論理を求めることなのかもしれない。
学問が、専門領域に閉じてしまうことが多いのもそれに似ている。
医療が人間を各種専門分野に分断し、
病名に応じたところでしか治療を受けられないような状態になっているのも、
さまざまなセクショナリズムの支配する役所的な在り方も、
対象を限定することのほうに力点を置くがゆえに、
そういう方向にならざるをえないのだろう。
 
科学に限らず、
対象にばかり目を奪われて、
そこで自分が何をしようとしているのか、には
目が向けられなくなってしまっていることは多い。
 
メタフィジックスmetaphysicsという、形而上学と訳される言葉があるが、
これは、meta-physics、つまりphysics物理的現象「についてのmeta」学で、
ふつう科学においてそれは嫌われる傾向にある。
それはおそらく科学が科学主義という対象を限定する方向に
歩みよっていることからくるように思われる。
「メターレヴェル」というふうに使われるように、
なにかに「ついて」、つまりその研究方法が問題にされないと、
そこで何が起こっているのかがわからなくなる。
近代の病というのは、おそらく
自分が何をしているのかを問わないがゆえの病なのだろう。
主観ー客観という分離もそこでストーリー化されてゆく。
 
すでに量子力学などにおいても、
観察行為が対象に影響している、というか
観察と対象が切り離されていないということは
語られ続けているにもかかわらず、
それは多くの場合お題目にしかなっていず、
科学主義という船に乗る者は、
みずからの乗っている船のことを知らずにいる。
まして船の航行している海のことなど気にもとめない。
 
自分がそこで何をしているのか。
自分がどういう乗り物にのって、今どこにいるのか、
そしてどこに向かおうとしてそうしているのか。
そうした態度というのが最も重要視されるのが
「神秘学」なのではないかと思う。
 
そうした態度が求められるなかにおいて、
たとえば、「霊」や「魂」、「エーテル体」、「アストラル体」といった
言葉を使わないで済ませることを
積極的な態度であるかのように思っている態度というのは、
先の引用の最初にあるような、
「さまざまな事情で、偏見にさらされても、公正さを失わないでいられる」
そうした態度とはかけ離れている。
 
トポスのHPのタイトルが
「神秘学ー遊戯団」というふうになっているのも、
そうした自分が何をしているのかに目を向けるという意味での
「神秘学」ということが念頭にある。
それは対象を限定しないということでもある。
「遊戯」というのも、そのことに関わってくるともいえる。
 
たまに、いわゆる「精神世界」関係のHPとのリンクのお誘いなどの
メールをいただくことがあったりもするが、
似たテーマを扱っているようにも見えてしまう
そうした「精神世界」関係の多くにともすれば欠けているのも、
先の科学主義と同じような、
自分が何をしているのかに目を向ける視線ではないかと感じることがよくある。
 
この「神秘学遊戯団」の基本コンセプトも、
「特別の人びとにのみ許された「神秘の」知識が問題なのではない」。
そうであれば、ぼくには何も語れないし、そうした知識を持っているわけでもない。
自分が何をしているのかに目を向けることによって
見えてくるものにささやかながらアプローチしてみるということにすぎない。
そしてそれは、だれにでも可能な認識態度であるとぼくは思っている。
 
 


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