ルドルフ・シュタイナー

『神秘学概論(GA13)』ノート

22 土星紀7:自己性・利己性


2002.3.11

 

土星紀の中期において人間段階を通過した霊存在は、
すでにふれたように人格霊(時の霊/アルヒャイ)。
『アーカーシャ年代記より』に、面白い記述を見つけたので、
この「人格霊」について、少し。
 
         これらの霊は、人体に自己性を、利己主義を植えつける。それらは、
        それら自身の人類段階を土星上で初めて達成するために、なお長きにわ
        たって人類との関係を保つ。だから、それらは続く諸周期においても同
        様に、人間の上に完遂すべき重要な仕事を持つのである。この仕事は常
        に、自己性の接種として作用する。自己性の利己主義への退化は、それ
        らの霊による活動に帰せられねばならないが、他方でそれらは、人間の
        すべての独立性の始祖である。それらなしでは、人間は自己完結した存
        在、一つの「人格」とはなりえなかったであろう。キリスト教秘密教義
        ではそれらに対して「根源の力」(Archai)という表現が用いられ、ま
        た神智学文献では、それらはアシュラと命名されている。
        (P170-171)
        (『アーカーシャ年代記より』(人智学出版社/P152)
 
阿修羅で連想したのは、宮沢賢治の「春と修羅」。
「はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ」
 
私であるということは、常に修羅を内包せざるをえない。
人間であるということは、
私であるということにほかならないのであれば、
人間であるということは修羅を生きることである。
しかも、人間は、人格霊とは異なり、肉体性さえ持つ。
その修羅はおそらくは幾層倍にも
こうしてふくれあがってしまうことになる。
 
人格の霊はまた時の霊でもあるということは、
時間において生きるということにおいてはじめて、
自己性が展開し得るようになるということでもあるのかもしれない。
 
時間において生きるということは、
なぜを問うということでもあるだろう。
なぜを問わざるをえないというのは病でもあるのだが、
それなしでは人間であることができないという病である。
そうであるならば、その病とともに生きる気概を持たねばならぬだろう。
「はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ」
 
人格はまたペルソナでもある。
ペルソナゆえに人は地上において生きることができる。
あるいは地上に生きるということは
ペルソナをつくるというプロセスでもある。
ルドルフ・シュタイナーという存在も、
この地上においてルドルフ・シュタイナーというペルソナとして生きた。
静かに激しく燃える炎のような精神のペルソナとして。
 
また、進化において上昇するということは、
同時に下降する力をも産み出すということにほかならない。
ゆえに、自己性は上昇する自己性でもあると同時に
下降する利己性でもあるはずである。
そこに阿修羅の顔の両面を見なければならないのかもしれない。
 
 


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